4話『蒼穹の調べ』

 

 

 

 とある女子大の和室にどこか懐かしい音がする。音色は均一ではなく、少しズレもある。急激にその音がやんだ後、パンと手を叩く音がする。

「じゃあ今日はここまでにします。お疲れ様でした」

 女性で少々高く、だが堂々としたよく通る声がした。肩よりも少し長い黒髪をバレッタでとめたその女性と反対側にはおしとやかそうな女性が4人ほど、ある楽器の前に正座しており、女性の言葉の後、ありがとうございましたと口を揃えて言い、頭を下げる。

「じゃあ、また来週、今日までのところさらっておいて。余裕があったら、次の部分も見ておいて下さい」

 女性が説明する後ろには、ぺちゃくちゃと座って談笑する女性がこちらも4人いた。

「あ、じゃあお疲れ様でしたー」

 楽器を片づけ終えると、先ほどまでまとめ役のようなものをしていた女性以外の面々が和室を後にしていく。残っている女性は、にこにことあいさつをしていた。

「うっ……」

 全員が和室を出ると、女性は突如苦しみだし、畳に倒れこむ。女性の口からはひゅーひゅーと妙な呼吸音がしている。倒れながらも女性は、鞄からビニール袋を取り出し、口にあてる。しばらくして、女性の表情から苦痛の色がとれるが、その頬には一筋の涙が伝っていた。

 

 

 すっかり夏が到来した8月。大学は長い夏休みのシーズンである。開放的な気分になれるはずの大学生でありながら、彼女は思い悩んだ表情を浮かべっぱなしだった。

――いつまでこんな無理な演技を続ければ……

 そう思った時、ふと顔をあげる。

「ここ、どこ?」

 思っていたところと違う景色に女性は首を傾げた。

――気分転換にお稽古場の近く散策しようと歩いてたのに、随分遠くまで歩いちゃったのかな……

「詠梨ちゃん?」

 幼さすら感じる女の子の声に呼ばれた悩める女性、詠梨は振り向く。

「……みずたまちゃん?」

 詠梨の視線の先にいたのは、大学の友人、みずたまの愛称で呼ばれる、湖 珠姫だった。

「詠梨ちゃん、どうしたの? こんなところで」

「いや、散歩してたんだけど、ちょっと迷子になったっていうか……」

 詠梨はいつものようにと微笑んで見せるが、珠姫は心配そうな顔で詠梨に近づく。

「何か変だよ? 何かあったの?」

「いや……あはは。そういうみずたまちゃんはどうしたの? こんなところで」

「私は、バイト。さっき一仕事終えて、事務所に戻るところ」

 珠姫は心配そうな表情のまま、応えた。

「詠梨ちゃん、私、依頼主さんの悩みを解決する仕事してるの。私1人じゃあんまり役にたてないかもしれないけど、心強いメンバーたちもいるから……何か困ってるんだったら相談していかない?」

 詠梨は少し考え込んでから、頷いた。

 

 

「へーっ! お嬢のお友達っすか! うん、いかにもお嬢様っぽい感じが似てるかも!」

 珠姫についていき、事務所にあがり、土井 飛鳥という長身の笑顔を浮かべた青年にすすめられたソファーに座ると、珠姫の隣に座っている風野 隼人に話しかけられた。

「そ、そうです、かね……」

 詠梨は隼人に気後れしていた。珍しそうに見られているということもあるにはあるが、女子校から女子大に通っている詠梨にとっては男性と話すこと自体が稀であり、更に容姿が妙な程整っている隼人に思わず緊張してしまう。

「池上 詠梨さん、だよね? たしか前にみずたまちゃんから話は聴いたことがあったな。同じ心理学科のゼミの友達で、箏曲研究会の部長をやってるんじゃなかったっけ?」

 珠姫の隼人と逆側の隣に座る木原 紫苑が話しかける。正確な情報に詠梨は頷いた。

「えっと、あの……」

「何か悩んでるんだよね?」

 戸惑う詠梨に紫苑が爽やかで優しげな声で尋ねる。

「みずたまちゃんから聴いてるかもしれないけど、僕は唯一の自慢で頭脳労働が得意だし、情報集めるのも得意。そこの隼人はまぁ顔が取り柄だけど体力勝負ならいけるし。力になれると思うよ」

 紫苑の言葉にも詠梨は伏し目がちでなかなか話し始めない。

「池上様」

 その様子に椅子から立ち上がり、頼れる姉御な火弓 八千代が詠梨の傍に寄る。彼女と目を合わせるように屈み、微笑む。

「私たちはプロですから。池上様のお悩みを聴いて、それを外に漏らすことなど絶対に致しません。気兼ねなくお話頂いて、私たちに解決させて頂ければと存じます」

 八千代の雰囲気に信頼をおいたのか、詠梨はゆっくり頷いた。

「サークルのことで悩んでて」

「箏曲の?」

 珠姫が訊くと、詠梨は頷く。

「私、部長だし、後輩の面倒見てるんだけど……うち指導の先生いないから上級生が教えなきゃいけないんだけど、私1人で4人の指導するの結構大変で。それに定演の曲、私がほとんど負担してるから自分の練習もあるし。合奏練習して、次誰誰の指導、終わったらまたその次の子ってやらなきゃいけなくて正直息つく間もないっていうか……」

 詠梨はカバンから、もはや手放せなくなっているビニール袋を取り出す。

「後輩の前でしんどい顔とかできないし、取り繕ってるんだけど、みんなが帰るといっつも過呼吸になっちゃって……もうこの袋がないとすぐ意識飛んじゃう」

 詠梨は自嘲気味に笑う。珠姫と隼人が頭に疑問符を浮かべる。それに紫苑が気付く。

「過呼吸っていうのは簡単に言えば呼吸困難を起こす症状だよ。呼吸量の多いスポーツをやった後とかにもなるみたいだけど、よく聞くのは精神的な要因、ストレスとかだね。厳密に言うとちょっと種類が違うらしいんだけどまぁ過呼吸って呼ばれてるね」

 紫苑は、詠梨のビニール袋に目をやる。

「血中の二酸化炭素濃度をあげなきゃいけないから、ビニール袋とかで自分の吐いた息をまた吸うっていうのを繰り返すのが主な対処法なんだよ」

 紫苑の解説に、珠姫と隼人がへぇーと同時に言う。詠梨は静かに頷いていた。

4人の指導って大変なの?」

「うん……一生懸命な子たちばかりだし、飲み込みは良い方だと思うの。でも4人とも同じパートじゃないから、1人は箏は箏でも楽器違うし。丁寧に教えたいけど、1人にかかりっきりになってると他の子ほったらかしになっちゃうし、なんか忙しない指導で」

「でも、たしか詠梨ちゃん以外にも上級生っていたよね?」

 珠姫がそう尋ねると、詠梨の表情が曇った。

「同期はたしかにあと4人いるけど私が指導してる間は後ろで関係ない話してるよ」

「手伝ってって言ったの?」

「……言ったけど、何度も言ったけど聞きゃしないよ。“下の学年の子とべつに仲良くないし”とか“私この曲知らないし”とか言い訳ばっかり。あげくのはてには“詠梨ちゃんが向いてるんだからやればいいじゃない”だもの」

 詠梨は服の裾を握りしめ、歯を食いしばる。落ち込んでいるというよりはかなりイライラしているようだった。

「私だって、曲知らなかったりするもの。同期と違って流派違うし、楽譜だって読めなかったけど頑張って音源聴いて覚えて。人見知り本当は激しいけど、先輩だもの、後輩に積極的に話しかけて何とかコミュニケーションとってるのに……私だって……」

「詠梨ちゃん……」

 珠姫はどう言葉をかけていいのかわからず、差し伸べるように出した手を行き場がないように引っ込めた。詠梨とは大学1年生の時以来の付き合いだが、基本的に穏やかで明るい印象だった。喜怒哀楽の怒の雰囲気を出している詠梨を珠姫は初めて見たのだ。

「私だって一生懸命やって何とか頑張ってるのに、何で全部押し付けるの。何で、何で? 部長になる時も話したの、本当に少人数になっちゃって、運営ぎりぎりで、今年私たちががんばらないとサークルつぶれちゃうって、なのに結局わかってくれない……!」

 詠梨は感情が爆発したように、目に涙をためて言った。珠姫は詠梨の様子におろおろするだけだった。

「……ならやめちゃえばいいんじゃないの?」

 突如の発言に珠姫は驚いて声の主を見る。詠梨も意表をつかれたという表情で同じくその人物を見た。そこにはふざけた様子でもなく、真面目な表情で詠梨の目を見る隼人がいた。

「辛いならやめればいいんだよ。俺は大学行ったことないからわかんないけど、サークルは義務じゃないよね? なら楽しくなければやめればいいと思う」

「隼人さん、あの」

「でもそれでもやめずに池上さんはがんばってるわけだよね? 何で?」

「それは……」

 詠梨は一度俯いて考え込んでいた。

「箏、弾きたい……もっとみんなに箏が楽しいって思ってほしい」

 詠梨がか細い声でそう言うと、隼人はにっこり笑った。

「池上さんは、本当に箏が好きなんだね」

「……はい!」

 詠梨もにっこりと笑う。珠姫はその笑顔を見て、やっと安堵の息を漏らした。

「じゃあ、箏曲での活動は続けないとだよね」

 隼人がそう言って、腕組みをして考え込む。

「その同期たちが厄介だよなぁ。何度も言ってるのにきかないっていう前科があるわけっすもんねぇ」

「……脅しますか?」

 珠姫の言葉に一同が固まる。

「みずたまちゃん、今、声のトーン、マジだったよ? それに君が言うと現実味帯びて結構怖いからね? あはは」

 さすがの紫苑も乾いた笑いを浮かべながら珠姫を宥める。隼人も珠姫を見て固まっていた。詠梨は不思議そうにそんな3人の様子を眺めている。

「登場人物は同期に後輩だよね……現場を見ないと何とも言えないけど……」

「練習場所は、ある意味密室ですし……あ!」

「そうだ、それだよみずたまちゃん」

 何かひらめいたような珠姫に紫苑。隼人はそんな2人を見てもぼんやりしているだけで、詠梨はさっぱりわからない。

「詠梨ちゃん、明日って学校行く用事とかある?」

「うん、ちょっと自分の役職の件で行くけど……」

「明日絶対返すから、サークルで使ってる譜面、貸してもらっていい?」

「う、うん、別にいいけど……何に使うの?」

「えへへ、企業秘密」

 珠姫の屈託のない笑顔に少し疑問を抱きつつも、詠梨はカバンから少しくたびれた楽譜を出し、手渡した。

「詠梨ちゃん、詠梨ちゃんが楽しくサークル活動できるよう、私たち頑張るから」

「うん……お願いします」

「まかせて下さい!」

 詠梨の依頼を受け、珠姫、隼人、紫苑が声を揃えて言う。

 その後、八千代からお代などの説明を受け、詠梨は玄関へと向かう。

「あ、あの……」

 詠梨が振り向き、隼人に向かって何か言いかける。

「何?」

「えっと、あの、その……あ、ありがとうございました!」

 詠梨は顔を赤く染め、慌てたように頭を下げると、そのまま事務所を後にした。

「ん? どうしたんすかね? 池上さん」

「さぁ……」

 頭に疑問符を浮かべる隼人、同じく珠姫。その2人の横で紫苑だけ苦笑していた。

「隼人、君は鈍感だね」

「は? なんだよそれ」

 隼人は、紫苑の言葉に訝しげな目を向ける。

「紫苑、何だよ、はっきり言えよ」

「な・い・しょ」

 頭上の疑問符が増える隼人を放っておき、紫苑はいつもの席に戻る。珠姫もそれに続く。

「さて、超能力担当、みずたまちゃんの出番だね」

 珠姫は詠梨から預かった楽譜を左手に持ち、右手をかざすようにあて、目を閉じる。

「詠梨ちゃんたちの合奏……楽器とは離れて談笑してる人たち……楽器持って演奏者11人回ってる詠梨ちゃん……あ」

 珠姫がそっと目を開ける。

「みずたまちゃん?」

「いえ、詠梨ちゃんが苦しそうに倒れるところが見えて、ちょっと……」

 珠姫は楽譜をテーブルに置いた。

「過呼吸ですかね、紫苑さんが言ってた対処法実践してました。その後、少しだけでしたが涙が伝ってたんです」

 辛そうな表情を浮かべ、珠姫は俯く。

「詠梨ちゃん、いつも明るくて元気そうな子なんです。見た目はお嬢様っぽいんですけどさっぱりした男勝りな感じの子で。お箏も上手で、演奏してる時何だか楽しそうで……でも、辛かったんですね……」

 珠姫がそう言うと、隼人も紫苑も神妙な顔つきで視線を珠姫からずらし、遠くを見た。

「抱え込んじゃうタイプなんでしょうね」

 紅茶の入ったカップを3つテーブルに並べながら、飛鳥が言う。明るさはないが、その優しい声に少し重くなっていた空気が和らぐ気がした。

「辛い時、すぐに人にそれを話す人と自分の中で抱え込んじゃう人がいますよね。抱え込む人は表に出さない分、周りからは“辛いことがなくて羨ましい”とか思われたりで。余計に話せなくなっちゃったり……悪循環のように辛さが溜まっていっちゃうんですよね」

 珠姫は顔をあげて、飛鳥と目を合わせる。

「解決屋の出番だね。あんな風に笑える子から笑顔を消すなんて良くないです。お悩み、解決してあげましょう」

「もちろんです!」

 珠姫も笑顔に戻り、隼人、紫苑も力強く頷く。

「さて、問題を整理しないといけないね」

 紫苑が紅茶を一口含み、冷静なトーンで言う。

「池上さんは過呼吸に陥るほど、精神的に追いこまれてる。かなりストレスフルな状態と言っていいと思うんだ。そしてストレスの原因はサークル活動」

「えっと、たしか指導が大変で、同期は手伝ってくれなくて、池上さんは頑張ってて」

「……隼人、全然整理できてないよ。駄犬に頭脳労働させてごめん、黙ってていいよ」

「おい、性悪キツネ男、大いに馬鹿にしてるのはわかってんだぞ、こら」

「まぁまぁ、やめましょう、今は。紫苑さんの言うとおり整理しないと」

 紫苑を睨みつける隼人を珠姫が諌める。

「詠梨ちゃんの話してる時の様子だと、同期が手伝ってくれなくて言い訳して詠梨ちゃんに押し付けてるのが結構負担になってるっぽいですよね」

「同期がすんなり手伝ってくれるような子たちならすぐに依頼解決なんですけど」

 隼人も溜息をつき、珠姫も難しそうな表情を浮かべる

「私と同学年の女の子ですよね、どうやったら説得できますかね……」

「隼人が片っ端らっから口説いて言うこと聞かせれば?」

「おい紫苑! おまえ俺を何だと思ってるんだよ!? お、女の子に声かけたのなんてお礼言う為にお嬢探して、何とか会えて話しかけたのが生まれて初めてだったんだぞ!?」

「えー、そうなんですかー? なんか勿体ないですねー、隼人さんだったらナンパでも百戦錬磨にでもなれそうなのに」

 紫苑のからかいに隼人が言い返し、飛鳥が何故か反応した。飛鳥の言葉に隼人の反応はというと、きょとんとしていた。

「飛鳥、何で俺だと百戦錬磨になれるんだ?」

「だって隼人さんすごくかっこいいじゃないですか」

「なぁ、飛鳥、俺それよく言われるんだけど、俺どこがかっこいいんだ?」

 隼人が不思議そうにそう言うと、八千代のパソコン操作の音も止まり、事務所がシーンとする。冷房の音が聞こえた。

「ねぇ、隼人……過剰な謙遜は嫌味に聞こえるよ?」

「だーかーら、本当にわかんねぇから今飛鳥に訊いたんだろー?」

「君さぁ、いろんな人に言われてたでしょ? ハンサムとか綺麗な顔とか。顔がイイの。いい加減自覚持ちなよ、ムカつくなぁ」

 紫苑の言葉を受け、隼人がぺたぺたと自分の顔を触る。珠姫がそっと手鏡を差し出し、隼人はそれで自分の顔を覗き込むように見るが、ピンとこなかったらしく首を傾げる。

「隼人さん……あの、今、月9で主演してる俳優さんいるじゃないですか? あの人によく似てるなぁって思うんですけど……あの俳優さんはかっこいいとは思わないですか?」

「ああ……いや、さすが正統派美形俳優って言われるだけあって綺麗な顔の人だなぁとは思いますけど……俺あんなに綺麗な顔してませんよ?」

「うーん、かなり似てると思うんですけどね、でもたしかに同じ顔というわけではないのでアレですが……ただ隼人さんは私もそう思いますし、誰が見てもかっこいいと思いますよ?」

「そうですか……まぁお嬢から見て見苦しいよりはかっこいいの方が嬉しいのでそういうことにしておきます」

 隼人は苦笑気味に言った。珠姫は少し考え込むように自身の顎に手を当てる。

「人からは思われてても自分では全然自覚できないことってあるんですね……」

 珠姫は身体を隼人の方に向けていたが、紫苑を振り返ってみせる。

「紫苑さん、私思うんですけど……詠梨ちゃんって実際は誰にどう思われてるとか全然知らないですよね?」

「そうだね、普通は他人がどう思ってるかなんてぼんやりとしかわからないしね」

「頑張りをわかってもらえてたら、詠梨ちゃん、救われるんじゃないかな……」

「うん、みずたまちゃんも心理学で勉強してると思うけど、ストレスを感じた時にそれ相応の対価があった場合、軽減されるからね」

「同期を説得するのが難しいんだったら、その線で何とかできないでしょうか?」

「よし、じゃあ僕としては……」

 紫苑の提案に珠姫と隼人は耳を傾け、ところどころで頷く。解決屋トリオの作戦会議が本格的にはじまった。

 

 

 翌日、夏の厳しい日差しが眩しい快晴。最高気温をマークする午後2時の解決屋事務所。

「ふぅ……暑かったです〜」

 珠姫が汗をハンカチで拭いながら玄関から入ってくる。

「みずたまちゃん、はい、冷たい麦茶」

「あー、飛鳥さん、ありがとうございます〜。しみこむ〜」

 現在東京は猛暑。熱中症なども多く出ているこの夏の暑さはかなりのものだ。汗で水分が抜けたような気になっていた珠姫によく冷えた麦茶は極上の飲み物にさえ感じた。

「紫苑さん、私からは特に訊きだしたりしてませんけど、箏曲研究会のメンバーのこととか調べはついた感じですか?」

「うん、もちろん。少人数だし、まぁ学校っていうのは会社よりセキュリティが甘いのかな、結構楽に情報をね」

「あのー、紫苑さん? 何やったんですかー?」

 素直に感心する珠姫とは違い、飛鳥は心配そうに尋ねた。

「んー? 一言で言えばハッキング?」

「だー! また犯罪―!」

「飛鳥くん、時には必要なことなんだよ」

「紫苑さーん、真面目な顔でなんか良い感じの声で言ってもごまかされませんからねー? 八千代さん、この事務所、犯罪に手を染めない程度なら何でもするって方針なので、まずいですよね!?」

「バレなきゃいいのよ」

「えー!? 言っちゃうー!?」

 可哀想なことに、正論を言って、慌てているのは飛鳥だけであった。

「あと、いろんなネットワーク使って、箏曲部員の性格とか思考パターンの情報も仕入れたから」

 紫苑がノートパソコンのキーボードを軽く叩きながら爽やかな笑顔で言う。またハッキングかと思った飛鳥は訝しげな視線を向けた。

「飛鳥くん、酷いなぁ。この情報は、池上さん本人や同期、後輩たちが話したことがあるだろう相手に聴いた情報だよ。バーチャル聴きこみってところ? 僕が犯罪だらけの人間みたいな目で見られたら傷つくよ?」

「いえ、僕も紫苑さんが悪人のようには思ってませんけどね」

 飛鳥は乾いた笑いを浮かべながら、お盆を片づけると、書類の整頓に戻った。

「お嬢も来たことだし、その情報とやら教えろよ、紫苑」

 珠姫が定位置に座り、隼人がそう言う。紫苑も当然のように頷いた。

「同期は4人。同学年で同い年。今時の女の子に多いというか3人は典型的な追従タイプだね」

「追従?」

「えっと、自分の考えで行動するより人について行くって感じですよね?」

「そうそう。まぁその中でも1人は自分で何かをしようともしないのに文句ばかり言うっていう一番厄介な奴で……過去池上さんは“ぶっ殺したい”とまで漏らしたことがあるらしいよ」

 紫苑がそう言うと、隼人が固まる。

「え? 池上さんってそういうキャラなの……?」

「あはは……詠梨ちゃんは、わりと……」

「ちょっと意外です。さすがお嬢のご友人」

「え?」

「あ、いえ! 何でもありませんよ」

 隼人は慌てたように両手を振り、珠姫から視線を逸らす。

「同期の1人は池上さんと同じく自分で考えて行動できるタイプなのだけれど……自分が楽しいのを優先で、自分から人に働きかけたり、池上さんみたいに自己犠牲精神をもって人に接するってことは絶対しない……悪意をもった言い方をすれば自分本位なところがあるって感じだね」

 紫苑はカチッとパソコンの操作音をさせる。

「池上さんは、とにかくサークル中心で生活してるみたい。彼女がレギュラーのバイトじゃなくて日雇いでバイトしてるのは、後輩の都合良い時間に指導したり、役職の仕事に対応できるようにしてるみたいで。しかもバイト代は月謝にも使ってるけど後輩のごはん代に消えてて、ほとんど自分の為に使ってない」

 紫苑がパソコンから目を離して珠姫と隼人を見やる。

「池上さんは特に後輩の面倒見が良いイメージが強いみたいなんだよね。これは他大学の同じ邦楽系サークルの人の証言だけど……」

「そうですよね、そんな感じがします」

「僕は、後輩に話を聴いてみる価値があると思う。特に……」

 紫苑が身を乗り出してまたパソコンを操作して、画面を珠姫たちに見せる。

「佐川 花梨(さがわ かりん)、湯原 久実(ゆはら くみ)の両名。この2人は結構練習や役職の仕事なんかで池上さんと一緒にいる時間も多いし、結構コミュニケーションをとってるみたいだから、是非話を聴いてみたいね」

 花梨の方はいかにもおとなしそうな清楚な女の子、久実の方は華やかでオシャレな都会の女子大生といった印象だった。

「明日、2人とも個人練習や役職の仕事で学校来るみたいだし。池上さんもいるけど練習後、仕事後は別行動になるみたいだから接触もできるだろうし、行ってみようか」

「それもどなたかに訊いたんですか?」

「ううん、箏曲の部員専用の掲示板で個人練習とかサークル関連の用事行く予定がある人は書きこむらしいんだけど、そこで見た」

「部員専用……」

 珠姫もさすがに読めたのか隼人も、そして紫苑の背後で飛鳥がじっとりと紫苑を見た。

「やーん、今時これぐらいなんてことないよー」

「紫苑さん……キャラ壊してごまかしてるでしょ?」

「ほんと、こんな情報ぐらいならなんてことなく入手できるんだけどなー」

 紫苑は後頭部に手を組んでソファーにもたれかかる。

「心の底から知りたいことは全然わからないし……」

 紫苑は珠姫に目線を合わせる。珠姫は真意がわからないようでぼんやりとした表情で紫苑を見ている。

「僕は君のことが知りたいのに……」

「へっ?」

「……鈍感その2

「紫苑さん?」

「なんでもないよ。じゃあ明日の予定の打ちあわせだね」

 

 

 翌日正午ごろ、珠姫の通う女子大。木々の多いこの校舎では蝉の鳴き声もして耳からも暑い夏を感じさせる。木陰が多いのがせめての救いである。

「意外っす。女子大って男は入れないかと思ったのに」

 隼人が落ち着かなさそうに言う。珠姫はくすりと笑う。

「余所はわからないですけど、うちは他の共学校の人と合同でサークル活動してるところもあれば、交換授業とかもしてますから」

「交換授業?」

「ああ、あれだよね。他の大学の授業とれるってやつだよね。学校によって特化してる分野もあるし、栄養系なんかは共学校より女子大の方が充実してたりするから最近は共学校の男子学生が女子大のそういう授業とりに行くことも結構あるみたいじゃない」

「そうです。心理も結構特化してる分野違いますから……うちは人対象のみでマウスの研究とかは余所いかないと……」

 珠姫と紫苑の会話に隼人は頭に疑問符を浮かべていた。

「私が一緒っていうのもありますし、隼人さんも紫苑さんも学生ぐらいに見えますから、警備員さんもスルーでしたしね」

「それってどうなの、僕たち28だけど……」

「だって、隼人さんはかっこいい上に羨ましいぐらい肌綺麗ですし、紫苑さんはとっても可愛らしいですし。なんていうか瑞々しいっていうか」

「喜ぶべきかどうか微妙だね……」

 隼人も紫苑も苦笑した。そんな会話をしている内にサークル棟へと到着する。

「そろそろ佐川さんの個人練習は終わる頃だと思うんだけど……」

 サークル棟の前の木陰に入って、3人はターゲットの佐川 花梨を待つ。暑くて、珠姫も手でパタパタと自分を仰ぎ、隼人はタオルで汗を拭いている。

「あれ、佐川さんかな?」

 レンガ造りのレトロな雰囲気漂うサークル棟の玄関に肩辺りまでのばされたまっすぐな黒髪、珠姫と同じかやや背の高いぐらいの女性が出てくる。

「じゃあ私が行ってきますね」

「うん、僕たちは別行動で、このマイクで聴いてるから」

 珠姫は紫苑から以前隼人とデートシュミレートの依頼を受けた時に使っていた小型の無線機を受け取ると、小走りで花梨の傍へと向かった。

「箏曲の佐川さんですよね?」

 珠姫が普段通りの優しい笑顔で話しかける。花梨は一瞬戸惑ったが、珠姫の雰囲気と校舎によく合ったお嬢様風の容姿もあり、警戒心は感じさせなかった。

「私はここの心理学科3年の湖 珠姫っていいます」

「心理……もしかして、詠梨先輩の?」

 花梨が細い声で言う。音は小さいのに、何故か聴きとりにくくはない少し不思議な声だった。秋に聴く鈴虫のような清涼感のある女の子らしく優しい声だった。

「はい、詠梨ちゃんにはいつもお世話になってます。実は、詠梨ちゃんのことでいろいろ訊きたいことがあって。よかったら近場でもどこでもいいのでご飯食べませんか?」

 花梨は少し考え込むように視線を下げたが、すぐに頷いてくれた。

 

 

 大学を出て商店街を抜けて駅近くの女の子向けのレストランカフェ。窓際の席に珠姫と花梨は腰掛ける。

「詠梨先輩のことって?」

「ええ、詠梨ちゃん、最近ちょっと様子がおかしくて……。特にゼミで何かあったってわけでもないし、特に特定のバイトしてる子でもないし……サークルで何かあったかなぁって。あ、ちなみに詠梨ちゃんは隠したがりだから、私がこんなこと訊いてるの内緒ね」

 珠姫は人差し指を唇に当て、秘密のサインを送る。子供っぽい仕草だが、どう見ても中高生にしか見えない珠姫がやる分には全く違和感がなかった。

「詠梨先輩は、サークルではいつも通りですね。いつ挨拶しても明るく返してくれますし、雑談もいろいろしてくれますし、指導もわかりやすく教えてくれますし」

「そうですか……」

――後輩には変わらないように見せてるのかな……

『みずたまちゃん』

 珠姫が考え込んでいると、イヤホンから紫苑の声がした。珠姫は、声は出さずにイヤホンに集中する。

『普段の池上さんについて訊き出して。要は後輩に池上さんがどう思われてるかが肝心だから』

 紫苑の言葉に珠姫は心の中で頷く。

「詠梨ちゃんって普段どんな感じですか?」

「普段……明るくって元気で活発な感じですね。見学に行った時も詠梨先輩が応対してくださったんですけど、笑顔で話しかけてくれて、箏の曲聴かせてくれたり楽譜見せながらいろいろ話してくれて。曲も綺麗でしたし、先輩が部長なら大丈夫そうだなって思って入部したぐらいですし。箏も上手いですけど親しみやすい先輩って感じです」

 花梨は何だか安心したような表情で詠梨のことを話す。珠姫はその様子から詠梨が良い先輩ぶりを発揮できていることが伺え、友人として安堵する。

「詠梨ちゃんのこと好きですか?」

「好きっていうか……素敵な先輩だなって。本当に面倒見よくて」

 花梨が携帯を取り出す。

「私、正直全然箏上手くなくて。高校で吹奏楽やってましたけど同じ音楽でも絃楽器触るのはじめてで……今の曲難しくて、練習は頑張ってるつもりなんですけど……」

 花梨が取り出した携帯を操作する。ピッピという電子音が聞こえてくる。

「テスト期間で合同練習日も無い時期ですね……私向いてないのかなぁって思ってた時、詠梨先輩からメールがきて……」

 これですと言いながら花梨が珠姫に詠梨から送られてきたメールを見せる。

 

From 池上詠梨先輩

To  佐川花梨

Sub  調子はどうだい?

佐川さん、テストはどう? 

1年って大体取得単位多いし大変でしょう? 

私はもう手抜きの仕方とか覚えちゃったからアレなんだけどねー、ってこんな3年になっちゃだめだよ?(笑)

しかも今年暑すぎだよねー、体調崩してテストダメにしたら大変だし、体調管理には気をつけてね、水分は絶対とること、あと強すぎない程度に冷房はいれてね。

合同練習はお休みだけど練習行ってるみたいだよね。

課題曲難しいかな? 特に佐川さんのパートは手がややっこしいし。

入部してから空いてる時間に指導したりして思ってたんだけど、佐川さんはいきなり弾けるってタイプではないんだけど、練習した後の伸びがすごいなって毎回感心するんだよ。

繊細な弾き方だし、確実で大器晩成型っていうか。だから最初躓いても不安がったりしないでね、佐川さんなら絶対大丈夫だから。そう思ってこのパート佐川さんにまかせたんだし。自信もってね、私が佐川さんの実力は保証するからさ、まぁ私がっていうのはうん、あれだけど(苦笑) 一応これでも部長ですから。

何かあったら気軽に連絡してね。指導でもなんでもやるからさ。

以上です!

 

 珠姫が携帯の画面から少し離れると、花梨は珠姫が読み終えたと気付き、携帯を下げる。

「私、ちょっと箏曲やめようかなって思っちゃったんですよ。でも、先輩からのメールで私もっと頑張りたいなって。だって、こんな私でも先輩が期待してくれてるんだって思うとそれに応えたくなりますし」

 花梨は詠梨のメールを見ながら、きらきらとした印象を与える笑顔で言った。ぱっと見た印象、引っ込み思案でおとなしそうな花梨だが、どこか芯のある印象に変えるほど輝いているように見えた。

「詠梨先輩……元気ないんですか?」

「うん……サークル大変みたいだし。自分の曲も多いし、1人で後輩の指導やってるみたいだから……」

「たしかに。定演の曲、7曲あって先輩の持ち曲6曲なんですよね。しかもイベントの曲もあるし……私たちの指導もちゃんとしてくれてるし……」

「もし詠梨ちゃんがサークル辞めちゃったら……」

 珠姫がそう呟くように言うと、花梨は心底困るという表情で首を勢いよく横に振った。

「詠梨先輩がいなくなっちゃったら、箏曲潰れちゃいます。まだ私たち教えてもらわないといけないこといっぱいありますし。詠梨先輩がいてくれるから箏頑張って弾きたいって、箏曲楽しいって思えるのに」

「ああ、ごめんなさい。詠梨ちゃん辞めるとかは言ってなかったんですけど……」

『佐川さんが池上さんを必要な先輩だって思ってることはわかったね』

 おろおろする珠姫の耳元に紫苑の声が届く。

『もうそろそろ、池上さんと一緒に役職の仕事してた湯原さんが校舎から出てくるし、行ってみようか』

 珠姫はイヤホンに手をあてながら、花梨を見やり、少々戸惑った表情を浮かべる。

『実は、役職の仕事終わった後、池上さんが必ずサークル棟の誰でも使える部屋に行くって情報があってさ。何してるのか見てみる価値があるかなって。よかったら佐川さん、湯原さんも連れて偵察に行ってみようかなって』

 珠姫がふと外を見ると、少し離れた位置に手を振る紫苑が見えた。珠姫はそちらを見て頷いて見せた。

「佐川さん、ちょっと詠梨ちゃん関係で湯原さんと合流して行きたい場所があるのですが、時間は大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です」

 

 

 大学に戻り、先ほど花梨に声をかけたサークル棟の前まで来る。店を出て、珠姫たちは隼人、紫苑と合流した。少し花梨は驚いた様子だったが、珠姫から交換授業で一緒の心理学科仲間という嘘八百な紹介を受け、またにこにこと温厚そうな笑顔を浮かべる2人に少し安心したようだった。

 サークル棟の前から、元気の良い明るい声が響く。詠梨の声だった。大声を出しているわけではないが、詠梨の声はよく通るのですぐにわかった。

 程なく、湯原 久実らしき女性が珠姫たちのいるところまで歩いてくる。顔立ちも華やかで服装もオシャレだが派手ではなく露出も少ないのでギャルっぽさは全くなかった。

「あれ? 佐川さん?」

 久実が花梨に目をとめ、不思議そうに声をかける。

「あ、湯原さん、はじめまして。私、詠梨ちゃんと同じゼミの湖 珠姫っていいます。で、交換授業の心理仲間です」

 珠姫がぺこりと頭を下げ、丁寧に挨拶する。嘘の紹介をされた隼人と紫苑も会釈をする。

「湯原さん。詠梨先輩、なんか元気がないらしいんです。様子、見に行ってみませんか?」

「え? 詠梨先輩が? 嘘、今日もいつも通り元気はつらつだったよ?」

 意外そうな表情で久実は首を傾げる。

「えーっと……臨床心理専攻してる者として言わせてもらうと、守秘義務発生、今から言うことは他の人はもちろん池上さん本人にも言わないでほしいんだけど」

 臨床心理専攻などと紫苑も嘘八百を並べる。

「池上さんは、過呼吸……ストレス性からくる過換気症候群になってる。僕の予測では、手伝いをしない同期への苛立ち、部長として過剰なまでの責任感が原因かと思う」

 紫苑の言葉に久実の表情に陰りが出る。

「たしかに、詠梨先輩以外の先輩ってほとんど話したことすらないですし……やっぱりストレスなんですかね……あの」

 久実が紫苑に遠慮がちに話しかける。

「詠梨先輩……病状悪いんですか?」

「病状っていうか……発作的に起こる症状だから、それ以外は全然元気なんだけど」

「倒れたりしませんよね? ほんと、うちのサークル、役職の仕事とか曲の実力とか統率とか全部詠梨先輩がいてはじめて成り立ってますし」

 久実はかなり不安そうだった。

「湯原さんも詠梨ちゃんのこと信頼してくれてるんですね」

「それは、入部した時からずっと面倒みてくれてますし、場を和ませてくれる唯一の先輩ですし……でも、本当にここ最近の指導、大変そうだなとはぼんやり思ってたし……やっぱり私たち重荷になってるのかな……」

「少なくとも、池上さんは後輩たちのことは大事にしてるから。それを確かめに、今から偵察に行こう」

 紫苑が何やら確証を持ったように笑顔で言う。花梨や久実はもちろん、珠姫と隼人も不思議そうな表情で紫苑の後についていった。

 

 

 柱などのデザインが洋風でどこか美術館のようなイメージを湧かせるサークル棟の廊下を進み、階段を上る。

「ここだね」

 ドアの小さな窓から覗くと、長机に何やらノートを置いて、作業をしている詠梨の姿が目に入る。紫苑は場所を花梨と久実に明け渡すと、2人とも詠梨の様子を心配そうに伺っていた。

「あのノートさ」

 紫苑が花梨と久実に説明するように話しかける。

「僕も聴いた話だけど、いつも池上さんがつけてるんだって、サークル活動のこと。業務記録誌に近いかな。内容は、“佐川さんが今日Eパートの6小節目から躓いたけど先週より完成度が上がった”とか“湯原さんは忙しさにもやりがいを感じられると発言”とか後輩の練習から雑談に至るまでの様子で埋め尽くされてる」

「先輩が……」

「“私は馬鹿だからノートに書かないと後輩がどうなってるかわかんなくなっちゃう”って言ってたらしいよ。後輩とちゃんと向き合って、きちんと11人見てあげられる先輩になりたいって、その為に欠かさずやってるみたい」

 紫苑の言葉に、花梨と久実はただただ聴いているだけだった。

「池上さんは、確実に後輩の頑張りも様子もちゃんと見てるんだね。後輩くんたちも、池上さんの頑張ってる姿、ちゃんと見てあげられたら素敵な先輩後輩関係だよね」

 隼人が優しげにそう言うと、感極まったのか、久実が勢いよくドアを開けた。

 それを見越していたように、紫苑が比較的優雅な動作で珠姫と隼人を柱に追いやる。

「え? どしたの2人とも?」

「詠梨先輩、いつも本当にありがとうございますー」

「私、先輩の期待に応えられるようがんばりますから」

「何だよ、2人ともいきなりどうした!? 特に湯原さん何で泣いてんの!?」

 ちょっと嗚咽まじりの久実に冷静だがしっかりと言う花梨、困惑した様子で若干慌ててさえもいる詠梨の声。

「詠梨先輩がいてくれるから箏曲やっていってるんですー、無理して倒れたりしないでくださいー、頼りない後輩ですけど先輩の役にたてるようにしますからー」

「わかったから落ち着け湯原!」

 詠梨には絶対姿を見られないように隠れている珠姫たちからは詠梨たちの様子は視覚情報として入ってこない。だが、その声の色、何となくの雰囲気ではあるが、あたたかなものをたしかに感じた。

「池上さんの頑張り、たしかにわかってくれてる人がいる。それだけでも池上さんは何とかやっていけるんじゃないかな」

「たとえたった1人でもわかってくれる人がいたら……何とでもなるからな」

 隼人と紫苑はそう言って目を見合わせると、珠姫に視線をやった。

「ね、みずたまちゃん」

「そうですよね、お嬢」

 2人に微笑まれ、珠姫はイマイチ2人にある共通の認識が読めず、適当な相槌をうってしまう。

「とりあえず、僕たちに今のところできるのはここまで。帰ろうか」

 紫苑の言葉に2人は頷き、その場を後にした。

 

 

「あ、メール……」

 事務所に戻っていた珠姫の携帯から着信音が鳴る。

 

From 池上詠梨

To   珠姫

Sub   がんばるよ!

お疲れ様。

今日もあっついねー。この間はなんかみずたまちゃんのバイト先でご乱心しちゃってごめんね!

箏曲のことでいろいろ悩んでたけどさ。自分の負担、正直減りそうにない。

でも、こんな私の悪あがき的な頑張りでも、きちんと見てくれてる子たちがいるってわかったしさ……私、これからもサークル活動がんばるよ。

あの、お代のことでまた事務所に行けばいいのかな? 八千代さんだっけ、あの綺麗な女の人に悩みが解決したらって言われたから。

 

 珠姫は隼人と紫苑、飛鳥、八千代と事務所メンバーでメールを読み、顔を見合わせて、返信メールを代表して珠姫が打つ。

 

To  池上詠梨

Sub  がんばって!

お疲れ様です。

そっかぁ、詠梨ちゃんが元気になったのなら一安心。

お代のことはね、0円で。だって、詠梨ちゃんががんばった結果だもの。私たちは何もしてないよ。

その代わり、これからもがんばって、また素敵な演奏聴かせてね!

 

 珠姫がにっこり満足そうに笑って携帯を仕舞おうとすると、またすぐに着信音が鳴った。

 

From 池上詠梨

To   湖珠姫

Sub  お菓子で突撃予告

えー、何かご迷惑おかけしたのに無料って……。

今度お菓子ぐらい持って行かせて!

ほら、言ってたじゃん? 私の箏の先生あの辺で教室開いてて、みずたまちゃんが好きな芸人さんも通ってるって。徒歩で行ける距離だからついでになるし! 今度絶対事務所行くからね!

あ、あとさ……隼人さんって彼女さんとかいるの?

いや、いらっしゃっても全然いいんだけどね! ちょっと気になっただけさ!

 

「ん? 何で俺の話?」

 隼人がメールを一緒に読んだ後、きょとんとした表情でそう呟く。紫苑、飛鳥、八千代は溜息をつき、さすがに珠姫もわかったのか苦笑する。

「隼人さん、彼女さんはいなかったですよね、好きな人はいるんですか?」

「え? ええ、いますけど……」

「え!? そうなんですか!? 私の知ってる人ですか!?」

 珠姫が興味津津の様子で隼人に顔を近づけ、そう尋ねると、隼人は顔を真っ赤にして珠姫から視線を逸らした。

「何この鈍感同士の鈍感キング頂上決戦……」

 紫苑は更に溜息をつき、呆れつつも笑ってしまった。

「なにはともあれ、今回も依頼無事解決だね」

 八千代がパソコンをシャットダウンし、帰り支度をしながら言う。

「あ、八千代さん。今回の詠梨ちゃんの依頼はお代、私の給料から天引きでいいですから」

「みずたま、今回は無料でいいの、あんたの判断に私も同意。今回紫苑が情報集めたぐらいで、1番頑張ってたのは依頼主なんだから。あんたたちの給料はちゃんと私の働きから出すので問題なし」

 八千代は手をひらひらとさせて、黒のシックだがどこか高級ブランドな雰囲気を漂わせたバッグを肩にかけ、事務所メンバーを見渡す。

「ほら、とっとと帰り支度しなさい。あ、隼人は出かける準備になるか」

「え? どうしたんです?」

「今日はね、私が焼き肉おごっちゃる」

 八千代がそう言うと、飛鳥を筆頭に4人とも大げさにわーいとバンザイをした。

 

 

「焼き肉なんて滅茶苦茶久しぶりですよー」

「僕も、めったに行かないよ」

「紫苑と飛鳥はもっと肉食べなさいよ。もうひょろっひょろじゃない」

 八千代が紫苑と飛鳥の腕を掴み、呆れたように言う。

「スレンダーと言って下さいよ、八千代さん」

「ばーか。それにしても今回の依頼は平和だったわねー、みずたまも暴れなくて済んだし」

 八千代が解放感あるように伸びをしながら言う。珠姫もそれに同意しようとしたその時だった。

「おー、綺麗な姉ちゃん連れてんじゃねーかよ。ちょーっくら俺たちと遊んでくれなーい?」

 何でこんな治安も良いで有名な学校街と言っても良いところにこんなチンピラたちがいるんだ……そう思った一同は、今はもう日が沈んでいることを確認する。

「ほーら、行こうぜ姉ちゃん」

「あ、馬鹿やめとけ! 痛い目見たくなかったらおとなしくしとけ!」

 八千代の腕を掴んだ男に対し、隼人が事情を知ってる者ならば的確な嗜めをするが、男ははぁ? と喧嘩腰な姿勢だ。紫苑と飛鳥は男の運命に先に心の中で合掌した。

「テメー、せっかくこっちは気分良いところなのに、汚ねー手で八千代さんに触ってんじゃねーよ!」

 女の子ながら荒れた言葉遣いに低い声が響き、次の瞬間には八千代に馴れ馴れしく触った男の身体が宙に舞った。

「ぐぇっ!」

 地面に打ち付けられ、潰れるような声がした。他の仲間はそれに怯み、懸命な判断をし、走り去った。

「だから言ったのに……」

 隼人をはじめ、事務所メンバーがやれやれといった風に溜息を漏らした。

「八千代さん、大丈夫ですか? 私、異能使っちゃったから余計にお腹へっちゃった」

 珠姫はというと、ころっといつもの可愛らしい声に戻り、温厚な笑顔を浮かべていた。

「あんた……もしかしたら結構ワルの素質あるんじゃないかって最近思うよ」

 珠姫は八千代の言葉に可愛らしく首を傾げていた。

「ま、今のは全面的にあの男が悪い! 気にせず焼き肉でぱーっと騒ぐわよ!」

「はーい!」

「そして明日っからまた依頼解決がんばるわよー!」

「おーっ!」

 八千代の拳をつきあげながらの活気づけに4人もテンションが上がる。

 楽しげな雰囲気の中、火弓解決屋事務所の5人が夜の街灯りに消えていった。

 

 

火弓解決屋事務所。今日も依頼主の悩みを解決する為に奔走します。