6話『ある冷たい雨の日』

 

 

 

 夕方5時。火弓解決屋事務所。所長の火弓 八千代がパソコンを操作し、秘書の土井 飛鳥がはたきで棚などの掃除をしている。定位置に座り、みずたまこと湖 珠姫と頭脳担当の木原 紫苑がチェスをしている。真夏の夕方は基本明るいのだが、今日はあいにくの天気で外は既に暗めになっていた。

「今日はこの雨ですし、全然依頼主様来ませんね」

 飛鳥が振り返って誰ともなく話しかける。

「結構すごい雨ですよね」

 珠姫は飛鳥の方を向いて返答した。

「どしゃぶりの雨……か」

 そう呟いたのは窓にぴったりとくっついて外を見ている、体力担当の風野 隼人だった。遠くを見ているような目をしている隼人の後ろ姿はどこか寂しげだった。珠姫は外の雨の景色とそんな隼人を交互に見ていた。

 

 

 夜11時。八千代が解散と言ってから、数時間経過しており、火弓解決屋事務所にはそこで寝泊まりもしている隼人1人となっていた。外の雨は夕方よりも酷くなり、建物に打ち付ける雨音が激しく耳に届く。電気もつけず、隼人はソファーの定位置に座り、神妙な面持ちで俯いていた。

 すると、遠慮がちなノックの音がした。

「隼人さん……起きてらっしゃいますか?」

 聴こえはするものの、大声ではなく、伺うような声。珠姫のものだった。隼人は玄関に駆け出し、ドアを開ける。

「隼人さん、大丈夫でした?」

 珠姫は赤い傘を右手に持っていたが、雨脚が強いので少し濡れていて、髪から雫が落ちる。左手にはコンビニ袋が提げられていた。

「はい、起きてましたから」

「そうでしたか……電気が点いてなかったので、もしかして寝ちゃってるかなって……」

「大丈夫です、本当に起きてましたよ。それにお嬢が呼んだら寝てようがなにしてようが飛んでいきますから」

 隼人の言葉に珠姫はにこっと笑う。

「お嬢、どうしました? どうして事務所に? 忘れ物とか……」

「あ、いえ……なんか甘いもの食べたくなってコンビニで買って来たんですよ。飛鳥さんが美味しいって言ってたロールケーキ。1人で食べるのも寂しいし、隼人さん甘いもの好きだから一緒にどうかなって……」

「そうですか。あ、じゃあお茶でも淹れましょうか。俺のじゃ、飛鳥みたいに美味しくはないですけど」

「いえ、大丈夫です。紅茶も買ってきましたから、コップだけ」

 隼人は頷いて、コップを持ち、ソファーの定位置に戻る。珠姫は向かいのお客様席に座ると思いそちらにコップを置いたが、珠姫は自分の定位置である隼人の隣に腰かけた。

「お嬢?」

「さ、食べましょう」

 珠姫の笑顔に押されるように、隼人はロールケーキを食べる。スポンジもふわふわとしており、生クリームは甘すぎず、飛鳥が称賛するとおり、美味しいものだった。隼人はぼんやりと最近のコンビニは凄いなと思いながら、珠姫の行動が少し不自然だなと考えていた。珠姫の家の近くにはたしかにコンビニがある。だが、そこから事務所までは徒歩で行けるものの、それなりに歩く。しかもこのどしゃぶりの雨の中、わざわざ来たのである。

「あ、え、えと、お嬢?」

 加えて、珠姫はロールケーキをわりと素早く食べてしまうと、じぃっと隼人を見ていた。

「ん、隼人さんは憂い顔も素敵でかっこいいですけど……やっぱり私は明るい笑顔が好きです」

「え?」

「今日、雨が結構降りだしてからずっと憂鬱そうな顔してます」

 珠姫の指摘に隼人は視線を落としてから、前を向くが、遠い目をしていた。

「どしゃぶりの雨は苦手ですから……辛いことがあった時、いつもどしゃぶりでした」

 隼人の声はいつも通り耳障りの良い綺麗な声だったが、いつも通りの張りはなかった。

「でも、昔よりはマシなんですよ。いつもの冷たい雨が優しく感じられた思い出ができましたから……」

 隼人はふと微笑んで、珠姫と視線を合わせる。

「お嬢が来てくれたあの日……事務所のみんなが待っててくれたあの日……あの時の雨は優しかったです」

「隼人さん」

 珠姫は優しい声で隼人の名前を呼ぶ。

「辛い過去は消えません。消してあげたいって私がどんなに思っても、それは無理なんだって思います。でも、これからたくさん思い出はつくれます」

 珠姫はそう言って、隼人の頭を撫でた。

「これからどしゃぶりの日もたくさん楽しい思い出つくって、どしゃぶりでも憂鬱にならないぐらい……一緒に思い出つくっていきましょう?」

 隼人は珠姫の言葉と撫でられている頭の感触にくすぐったそうに笑って頷いた。

「ありがとうございます。そうですね……きっと、そうできると思います」

 隼人はそう言って、先ほどまで撫でられていた頭を触る。

「お嬢ってよく俺の頭撫でますよね?」

「え? あ、嫌でした?」

「いえ! 嬉しいんですけど……子供扱いなのかなって、俺の方が年上なのに」

「いや、子供扱いのつもりはないんですけど、何か隼人さんはなでなでしたくなっちゃうんですよ」

 珠姫は腕組みをしてうーんと唸る。

「隼人さんより年下の飛鳥さんを撫でようとは思ったことないですし、紫苑さんは可愛いって思っても頭撫でようとは思いませんし、八千代さんは恐れ多すぎますし。詠梨ちゃんとか友達でも撫でたことってないなぁ」

 珠姫は首を傾げながら隼人を見る。

「隼人さんって犬っぽいんですよね、紫苑さんが駄犬ってよく言ってますけど。うん、白くて大きいふかふかの犬って感じ。隼人さんは綺麗な顔したかっこいい男の人だってわかってるんですけど、なんか可愛くって」

 珠姫は楽しそうに微笑む。隼人は恥ずかしそうにはにかんだ。外の雨が更に激しくなったのか、事務所に雨がぶつかる音が響く。珠姫は窓の外を見やった。

「ああ、もうこれゲリラ豪雨の域ですよね。なんか止みそうにないし……帰るのめんどくさいなぁ。私も今日、泊ってっていいですか?」

 珠姫の言葉に隼人は顔を赤くして慌てはじめた。

「いや! あの迷惑とかそういうのないですけど! まずいですよ! 俺と2人きりなんて!」

「まずいって……何がでしょう?」

「お嬢は女の子なんですよ!? でもって俺は男なんですよ!? 俺に何かされたらどうするんですか!?」

「何かって……隼人さん、私に何かするんですか?」

「いえ! 俺はお嬢の嫌がることは一切しませんけど!」

「なら大丈夫じゃないですか」

 珠姫はにっこり微笑む。隼人はうーうーと唸った後、いいのか? と自問自答していたが、急に欠伸をして目をこすった。

「なんか急に慌てたりしたせいかな……眠気が……」

 隼人の言葉を聞くと、珠姫は座る位置をずらしてから、急に隼人の腕を引っ張った。

「わ、わ、お嬢!?」

 隼人は不意打ちだったので、そのまま倒れこむ。隼人の頭は珠姫の太ももあたりにのせられていた。

「寝ていいですよ?」

「いや、あの、この体制は……」

「やっぱり私の膝枕なんて嫌ですかね?」

「いえ! あったかくて柔らかくて最高なんですが……あの、その」

 隼人は顔を真っ赤にしながら、珠姫を見上げる。珠姫はそっと優しく隼人の頭を、また撫でた。

「私も、この凄い雨であの日のこと思い出しました」

「お嬢……?」

「だから、今日は隼人さんを思いっきり甘やかしたいんです。私は、もう隼人さんにはあんな思い詰めた表情させたくないんです」

「甘やかすって……俺、結構甘えたですよ?」

「私は結構隼人さんに甘えられるの好きですよ?」

 隼人は何か言わないと、と思うが言葉が出てこず、戸惑っていた。後頭部にあるぬくもり、頭を撫でる優しい手の平に心地よい睡魔がやってくる。

「お嬢……好きです……大好き、です……」

「私も大好きですよ」

 珠姫の言葉が認識できるかできないかぐらいのタイミングで隼人は睡魔に身を委ねた。

 

 

 今年の1月に遡る。成人式が行われる日も過ぎた平日の夜。吐く息は白い。都心部の繁華街はいつも通りにぎわっているが、意外にも路地裏は静まっている。それは少し不気味にさえ感じる。汚れたコートを羽織り、隼人は路地裏を駆けていた。

――いつの間にか人のいないところに来ちまった。早く駅の方に行かないと……

「おい、風野 隼人よぉ」

 隼人がそう思っていると、背後から男の声がする。

「なんだよ逃げちまってよぉ。相手してくれねぇのか?」

「喧嘩はしたくねぇんだよ。警察沙汰にでもなったら仕事探しに響くからな」

「へぇ、でも、おまえが一方的にボコボコにされたら被害者で済むんじゃねーの?」

 男の背後から鉄パイプを持った男たちが十数人出てくる。どの男もニヤニヤと下品な笑みを浮かべとギラついた目をしていた。隼人は23歩後ずさりをして、曲がり角を曲がり、走る。

「待てやっ!」

 隼人は駅に向かって走る。少し息があがってきたが、方向は正しかった。しかし、駅も近付いたという時に、男たちに囲まれてしまう。公園のような広場。人もいたはずなのに、鉄パイプを持った男たちの集団という危険を察知してか、いつの間にか隼人たち以外には人の姿は見えなくなっていた。

「風野、いい加減逃げるのはやめておとなしくぼこられろや」

「言われてぼこられる奴がいるかよ」

「おまえ、前から目ざわりだったんだよ。腕あるくせにどこにも所属しねぇで、かっこつけやがって。あげく、俺の女、おまえがかっこいいって俺のこと馬鹿にしだしてよ」

「俺の勝手だろ……おまえの彼女に関しては知ったこっちゃない」

「その無駄にお綺麗な顔、見たくもない顔にしてやるよ。おい、やれ!」

 男の言葉で男たちが隼人に飛びかかる。隼人は1人目の鉄パイプを手で叩き落とすと、その鉄パイプはだいぶ離れたところまで転がった。2人目のみぞおちに拳を叩きこみ、飛びかかってくる男たちにチョップや肘打ちなど主に手、腕を使った攻撃を加えてかわす。

「がっ!」

 だが、さすがに多勢に無勢か、隼人は首の付け根あたりを鉄パイプで殴られる。体制を崩したところに、他の男の打撃が脇腹や背中に入り、隼人はよろよろと崩れ出した。

「顔狙ってやれ」

 倒れこむ隼人に男たちが詰め寄る。隼人は殴られた箇所を抑えながら、男たちを睨みあげていた。やられる、そう隼人が思った時だった。

「ぐわぁっ!」

 隼人は驚いて目を見開く。突如、鉄パイプがプロ野球投手が投げた豪速球のように飛んできて、男たちを襲撃したからだ。その直撃を受けた男たちが倒れこむ。

「逃げましょう!」

 何者かが隼人の腕を引っ張り、駆けだした。隼人は呆然としたようになされるがまま、走っていた。隼人を引っ張っているのは、胸元まであるだろうまっすぐな黒髪を振り乱し、ふわふわしたデザインのコートを羽織った女の子だった。

「待ちやがれ!」

 鉄パイプの直撃を受けた男以外の男たちが追いかけてくる。女の子は隼人を自分の背後にやると、道路工事の歩行者通行止めの看板を持ちあげ、また凄いスピードで追手に投げつけた。

「しつっけーんだよ!」

 女の子は、看板をぶつけられ、顔を抑えて地面に突っ伏した男たちに荒い言葉でそう言ってのけると、また隼人の腕をとり、走った。

 2人は駅に着き、既に人混みに紛れこんでいた。

「ふぅ、これで大丈夫ですかね」

 女の子は隼人に笑いかける。

「殴られたところ、大丈夫ですか?」

「あ、ああ……少し痛むだけ」

 隼人はまじまじと女の子を見て、また驚いた。ふっくらとした体型の美人でもアイドルのような可愛らしさがあるわけではないが、不思議と見る者に好感を持たせる愛嬌があるいかにもお嬢様といった風貌の女の子だった。とても鉄パイプをもった男たちに立ちはだかれる、また看板を投げつけるような女の子には見えない。

「あの、何で俺のこと助けて……」

「だって、完璧に向こうが悪そうでしたから」

「いや、でも巻き込まれたら嫌だなとか……普通の人は見て見ぬフリするし……」

「でもあのままじゃ貴方がやられてたでしょう? それに、私、ああいうよってたかって人に暴力ふるう奴とか大嫌いなんです。怪我はさせましたかね、ざまぁって感じですよね」

 女の子はそう言うと、腕時計を見た。

「わ、まずい。終電! あ、じゃあ。帰り、気をつけて下さい。人がたくさんいるところに行って下さいね。失礼します」

 女の子は隼人にぺこっと頭を下げると、何か小声でぶつぶつと言いながら駅のホームへと駆けだした。隼人はそんな女の子の後ろ姿をぼんやりと眺めてつったっていた。

 

 

 翌日から、隼人はたまに日雇いのバイトをしながらある街を徘徊していた。

――あの子、この駅の名前言ってたよな

 都心部のわりに学校などが多いせいか比較的落ち着いた街。隼人は、自分を助けてくれたあの女の子が自分と別れた時に呟いた駅名、それだけを頼りに女の子を探していた。頭をぼりぼりと掻きながら、我ながら非効率なことしていると思った。

 手がかりがそれしかない隼人の探索は半月以上続き、2月に入ってしまった。あたりは寒い。勤めていた町工場がつぶれ、失業者となり日雇いバイトでつなぎ、寝泊まりはネットカフェなどというネカフェ難民に陥っている隼人には辛い時期になってきた。

「あ!」

 隼人は咄嗟にダッシュし、見覚えのある、またずっと探していた人物の肩を掴んだ。

「え? あ……」

 女の子は急に背後から肩を掴まれ、驚くが、隼人の顔を見て、また違った驚きが含まれた表情になった。

「以前、俺のこと助けてくれた方ですよね?」

 隼人の言葉に女の子は頷いた。

「お礼が言いたくて、ずっと探してました。俺、風野 隼人っていいます。お名前、お伺いしてもいいですか?」

「は、はい……私は湖 珠姫です」

「湖 珠姫さん。良い名前ですね。綺麗な響きです」

 隼人は珠姫をキラキラとした目で見ていた。

「あの、お礼も言いたかったんですけど。それと……お願いがあって」

「お願い?」

「俺を舎弟にして下さい!」

 珠姫はぽかーんとした。どうリアクションしよう、と考えるがまったく良いものがうかばず、ただただ隼人を見ていた。

「貴女の勇敢さ、気取らない性格、腕っ節に惚れました。姐さん……は年齢的に俺の方が上っぽいからおかしいか、うん、お嬢と呼ばせて下さい!」

「あ、あのあの、舎弟って! 私、べつに番長的なこともやってませんし!」

「子分とか召使いに思ってもらえれば大丈夫です! 護衛でも荷物持ちでも雑用でもなんでもしますよ!」

 珠姫は断るにも隼人の勢いがすごく、戸惑っていた。

「あら、みずたま。えらくイイ男じゃない。彼氏?」

 そんなわたわたとしている珠姫の耳に入ってきたのは凛とした女性の声だった。

「か、彼氏じゃないですよ八千代さん! 私に彼氏がいるわけないじゃないですか!」

「はは、ごめんごめん。ちょっと前から様子見てたからわかってる。でも、こんなに熱烈にお願いしてくれてるんだから舎弟にしてあげたらいいじゃないの」

 八千代の言葉に珠姫は慌て、隼人は嬉しそうに笑う。

「まぁそうねぇ……あんた名前は……」

「隼人です。風野 隼人」

「じゃあ隼人。あんた体力に自信はある?」

「はい!」

「今、定職には就いてないのよね?」

「ええ、去年までいた町工場がつぶれてしまったので、今は所謂日雇い労働者です」

「そう……じゃあ、来なさい。みずたま、事務所行くよ」

 八千代は不思議そうにしている珠姫、隼人をひきつれ、事務所へと向かった。

 

 

 1階が喫茶店になっている飾りっけのない2階建ての建物。その2階には「火弓解決屋事務所〜あなたの抱える問題何でもお引き受けします〜」という看板があった。

 八千代が2階の部屋のドアを開ける。

「おはよーさん。今日も仕事頑張るわよー」

「おはようございます、八千代さん。みずたまちゃんも一緒ですか?」

 玄関にゆっくりと歩いてきて出迎えたのは隼人よりも10cmほど背の高い青年だった。だがかなり細身で威圧感は全くない。爽やかな笑顔が見る者に好印象を与えていた。

「飛鳥、お茶人数分お願い。よ、紫苑もおはよーさん」

 八千代は飛鳥と呼んだ青年にそう言うと、奥に入る。ソファーに腰掛けている中性的な青年に紫苑と呼びかけ、挨拶した。

「八千代さんおはようございます。……みずたまちゃんも」

 紫苑は八千代に頭を下げ、礼儀正しく挨拶し、珠姫を見、安心したような優しい笑顔を浮かべた。

「その人は依頼主様?」

「いや、こいつは風野 隼人。新しくうちで雇おうと思って」

 紫苑の問いかけに八千代はそう応えた。隼人は目をぱちくりとさせていた。

「ああ、隼人悪かったわね、詳しく説明するわ。まず、自己紹介してなかったか。私は火弓 八千代、よろしく」

 八千代はそう言いながら、所長の椅子に腰かける。飛鳥が温かいお茶を運んで八千代の前に置いた。紫苑の前にも置かれ、珠姫もその隣に座るとお茶が出される。

「隼人は、そうね、みずたまの向かいにでも座って」

「みずたま?」

「あ、すみません。私のあだ名です。湖 珠姫だから略してみずたまです」

 珠姫がそう言うと隼人は頷き、促されたとおり珠姫と紫苑の向かいに腰掛け、飛鳥の出されたお茶を受け取る。

「ここは私が立ち上げて運営してる火弓解決屋事務所。仕事の内容は簡単に言うと、悩みを持ったお客様、私たちは依頼主と呼んでるけど、この人たちの悩みを解決するべく動く、ただそれだけ」

「悩みっていうのは……」

「本当にいろいろよ。ただ単に雑用してほしいっていうのから、人探しとか恋愛相談とか変質者撲滅とか。犯罪にならないものなら何でも引き受けてるわ」

 八千代はくいっとお茶を飲む。

「で、私はここの運営の為に副業をいろいろやってるわけで基本的に事務所にずっといる。そこの土井 飛鳥は秘書兼雑用係の留守番担当。あんたの向かいに座ってる湖 珠姫と木原 紫苑の2人が主に依頼解決の為、出向いてるわけよ」

「へぇ……お嬢はそういうお仕事されてるんですね」

「去年の11月頃からかな、ここの事務所でバイトしてます。一応まだ大学生ですが」

「んで、みずたまも紫苑も優秀な解決屋よ。みずたまはちょっと人とは違う能力使えるし、紫苑はさすが東大首席卒業の秀才で頭脳プレーや情報収集はお手の物でね」

 隼人はへぇと言いながら珠姫の隣にいる紫苑を見やる。紫苑は何だか居心地が悪そうにしていた。

「ただねー、2人ともあんまり体力ないのよ。運動神経も良くないし。だから隼人、あんたを『体力担当』として雇おうと思ったわけ」

 八千代が隼人をビシッといった感じで指さす。隼人はまた目をぱちくりとさせていた。

「つまり……俺は解決の為にとにかく体力つかってお仕事していけばいい感じですか?」

「まぁ、そういうこと」

「お嬢の役にたてますか?」

「そりゃね、みずたまの仕事を一緒にやるわけだから役にたてるだろうよ」

 八千代の言葉に隼人はぐっと右手で拳をつくる。

「お嬢の為ならなんだってします! 八千代さん、是非俺を働かせて下さい!」

 そんな隼人の様子に八千代は満足そうに頷く。珠姫はキョトンとしており、紫苑は何だか呆れたような表情だった。飛鳥は笑顔を浮かべている。

「よし! じゃあ決まりだね! よろしく隼人」

 八千代が立ち上がり、隼人に歩み寄って手を差し出す。隼人も立ちあがって八千代の手を握った。

「ちなみに住むところないんだったらここ使っていいから」

「ありがとうございます!」

 そんな2人の様子に飛鳥が相変わらずにこにこと微笑んで見守っている。

「お嬢、俺、がんばりますから!」

 隼人は珠姫を見てにかっと笑った。珠姫は当初戸惑っていたものの、隼人の屈託のない笑顔に警戒心も自然に解け、にっこり微笑み返した。紫苑はそんな珠姫と隼人を交互に見やり、何やら不安そうな表情を浮かべていた。

 

 

 隼人のはりきりようといったらなく、家事手伝いのような雑用も夜道の警護任務も仲良しグループのもめごと解決も全力で取り組んでいた。先陣きっていくので、珠姫と紫苑は後ろに控えてそんな隼人を見ているような状態が多かった。一生懸命で明るく元気な隼人はすぐ事務所にも馴染んだ。当初戸惑っていた珠姫も屈託のない笑顔を向けてくれる隼人に好感を持っていた。紫苑とはタイプが正反対な為か、口げんかになるが険悪さは欠片もなかった。

「お嬢、お嬢! これですよね!?」

 隼人は目を輝かせて、招き猫のストラップを珠姫に見せていた。

「はい、きっとそれです。わぁ、すごい絶対見つからないと思ってた」

「本当。そんな小さなもの見つけられるなんてどういう鼻してんの? ほんっと駄犬」

「なんだとこの性悪キツネ男!」

「まぁまぁ、2人とも」

 紫苑に喰ってかかる隼人を珠姫が嗜める。落ち着いた隼人は招き猫ストラップを見て穏やかに微笑んだ。

「でも良かったっすね。あの子これすっごく大事にしてたみたいでしたし」

「そうですね。依頼解決で依頼主様もきっと笑顔になってくれますよ」

「人の役にたてるっていいですね。お嬢がこの仕事してる理由がよくわかります」

 珠姫も穏やかな表情を浮かべて、隼人の持っているストラップを見ていた。紫苑が2人には気付かれないように溜息を漏らしていた。

 

 

 ストラップ探しの依頼主を送り届け、他の依頼主の雑用をこなして、現在夜10時。事務所へと3人は帰っているところだった。

「早く戻らないとね。これは雨降りそうだよ」

 紫苑がそう言って、珠姫と隼人がえーと返していた時だった。

「なんだ、テメー、風野 隼人か?」

 低音のドスのきいた声で男が乱暴な口調で隼人に声をかける。男は隼人よりも背の高い、飛鳥ほどの長身だった。だが、飛鳥と違い体格からも威圧感があった。スーツを着た一見サラリーマンのような格好でもあるが、鋭い眼光と顔にもうっすら見える傷の跡が彼から堅気ではないという特殊な雰囲気を醸し出していた。

「あんた……」

「忘れたか? 同じ地元の権藤(ごんどう)だよ。ああ? 昔は喧嘩番長なんて恐れられてて俺も酷ぇ目に遭わされたぐれぇなのに、なんだ女の腰巾着になり下がったのか?」

 権藤が珠姫を品定めするように見る。

「はぁ、テメー自分のなりのわりにこういうのが好きなのか。テメーには似合わない純粋そうなお嬢様じゃねぇか、ああ、胸はでかいな」

 隼人は珠姫を庇うように立って、権藤を睨んだ。

「やめとけ、風野。テメーとは住む世界もちがうぜ」

「わ、私別にお嬢様じゃないし!」

「嬢ちゃん、こいつは不良だったんだぜ? それもかなりのな。中学生の時はそりゃあ暴れてたよなぁ? 気に入らねぇ奴は自分より圧倒的に弱かろうが容赦ねぇ、ああ恐ろしい」

「何で今それを……」

「まぁ可哀想なのは認めてやるよ。おまえ、親に捨てられたんだもんな?」

 権藤の言葉に隼人の顔色が変わる。

「愛されない星の下生まれてくりゃ、そりゃ不良にもなりたくなるわな」

「違う、ばぁちゃんが……」

「もう死んだろ? この世でおまえは愛されない存在なんだよ。親にも捨てられ、友達もいない。取り繕えばたしかに無駄に顔はいいから何とかなるんだろうがな、ありのままのテメーなんて誰も愛してくれねぇんだよ」

「うるせぇ!」

 隼人は声を荒げると、ただ喋っていただけの権藤に殴りかかる。

「隼人! 先に手を出すな!」

 紫苑の制止で一瞬隼人の動きが止まるが、胸倉を掴む。権藤と隼人ではだいぶ体格差があるというのに、権藤の表情の歪みからすると、力は互角ではあるようだった。

「なぁ、嬢ちゃん。嫌だろう? あんたとは全く違う道を歩いてきたんだよ。そうそう、あんたには隣の坊やの方が似合ってるよ」

「は、隼人さん……」

 珠姫が権藤に詰め寄っている隼人に声をかける。だが、いつもと違って怒りが充満している隼人に珠姫は戸惑いを隠せなかった。

「お嬢……」

 そんな珠姫の表情を見て、隼人の顔から血の気が失せる。もとより白い肌だが、青白くなっていた。

「俺は……俺は……」

 珠姫を見ているようで焦点の合っていない隼人の瞳。珠姫も紫苑も何も言えなかった。その時、その場にいた全員に空からザーッという音と共に水が降りかかる。

「嫌だ……俺、生きてるよ……ここにいるんだよ……やだ、否定しないで、やだ!」

 隼人は顔を恐怖の色に染めるとそううわごとのように言い、走り去った。

「隼人さん!」

 珠姫の呼びかけも聴かず、隼人の後ろ姿はみるみるうちに小さくなる。

「はっ、相変わらず……」

「テメー、なんだ、隼人さんに何の恨みがあんだ?」

 荒い言葉は権藤のものではなかった。女の子ながら低めの声。お嬢様風な容姿からは想像できないものが発せられている。さすがの権藤も呆気にとられていた。

「はぁ? 嬢ちゃん、不良の真似ごとか?」

「うっせぇ! テメー、隼人さんと同じぐらい恐怖味わいやがれ!」

 珠姫がそう怒鳴ると、権藤の大柄といえる身体が天高く舞い、硬い地面へと打ち付けられた。何かが潰れるような嫌な音がした。

「隼人さん……」

 雨の雫が髪から落ちる、珠姫が隼人の名をそっと呟く。

「みずたまちゃん」

 雨で少しぺたっとしてしまった髪を直しながら、紫苑が声をかける。

「行ってあげて……隼人のとこ」

「紫苑さん」

「あの隼人を助けられるのはみずたまちゃんだけだと思う。僕がそうだったように」

 紫苑は隼人が走っていった方向を見やる。

「基本的に人は隠そうという時には自分の行動範囲に縛られる傾向がある。きっと隼人も普段の行動範囲、もしくは僕たちと依頼解決で訪れた場所……そんなところにいるんじゃないかな」

「紫苑さん……行ってきます」

 珠姫は決意の光を湛えて、紫苑に軽く会釈をすると隼人の走っていった方へ駆けだした。

 

 

 隼人と紫苑と3人で解決にあたった依頼主の家の近く、小学校、高校、児童公園と見て回るが隼人はいない。珠姫はびしょぬれになってるのも気にせず、息をきらし、少し歩きながら進んではまた走った。

――隼人さん……あんな思い詰めた顔、初めて見た

 愛されないと言われた時の隼人の顔は悲しみや恐怖、そういった感情が溢れていた。珠姫は思い出して胸が締め付けられるような気持ちになった。

 ふと足を止める。春には桜で賑わう庭園の入り口。門が閉まっている。珠姫はそこに歩み寄った。

「隼人さん……」

 珠姫は門に呼びかける。

「隼人さん、いるんでしょう? 返事して下さい」

 珠姫の声にゴトッという音がした。珠姫から姿は見えない。だが、それは隼人だという確信が珠姫にはあった。

「隼人さん、事務所に帰りましょう……風邪引いちゃいますよ」

 珠姫の言葉にも反応はない。珠姫は門に手をそっと置いて、俯いた状態で雨に打たれたまま立っていた。

 その状態でしばらく時間が過ぎて行った。夜も更けたこの辺りに人通り自体少なく、雨の音と遠くのように車が走る音がしていた。

「雨……どしゃぶりの雨は嫌いです」

 門の向こうから隼人の声がして、珠姫は少し顔を上げた。

「ばぁちゃんが死んだ日もどしゃぶりだったし……それに、俺が親に愛されてないって知ったあの日も雨でした」

 口調からも珠姫に話しかけているとは思われる隼人の言葉。だが、それは力なく、独り言のようにも聴こえた。

 

 

 帰りの会が終わったとある小学校の6年生の教室。きゃっきゃと楽しそうに帰る子供たちと違い、淡々と黒いランドセルに教科書を仕舞う色の白い、美少年といえる少年がいた。表情には疲れが出ているように見える。

「風野―、サッカーやんねー?」

「ごめん……塾行かなきゃ……」

 少年、風野 隼人はランドセルを背負うと、走って教室を出てその場を後にした。

「あいつぜんっぜん遊ばねーのな」

――僕だってほんとは遊びたいのに

 廊下を走りながら、隼人はそう心の中で言った。

 

 

 隼人は放課後には塾に通い、夜はコンビニ弁当を1人で塾で食べて、9時頃まで授業を受けて家に帰る。小学3年生の頃からそんな暮らしをしていた。通っている塾は大手の進学塾、習熟度別にクラス分けがされているが、隼人は平均ちょい上のクラスに在籍していた。

 家に帰っても特に両親と会話するわけでもなく、お風呂に入って寝るだけ。隼人はそんな生活に疑問を持たないわけではなかったが、両親、特に母親の言いつけなのでひたすら守っていた。

「喉かわいた……」

 深夜2時ごろ。パジャマ姿でベッドから起き上がった隼人は寝ぼけ眼をこすりながら、階段を降りていく。リビングにはまだ灯りがついており、激しくはないが、何やら揉めているような両親の声が隼人の耳に届く。

「だめだわ、あの子全然上のクラスに行けない」

 盛大な溜息をつきながらそう言ったのは隼人の母親だった。

「あのクラスでも私立の学校ならあるんじゃないのか」

 少し呆れたように隼人の父親が言う。

「ヘタな私立なんかに入れたら何言われるか。だったら公立でいいわ」

――お母さんとお父さん、何話してるんだろう……

「大体なんなのあの子、こっちはお金かけて塾通わせてるっていうのに、勉強もできない、何か目覚ましい才能があるわけでもない。運動神経だって普通よりちょっと良いぐらいじゃない」

 隼人の母親は親指の爪を噛んでかなりイライラしたように言った。

「たしかにな、所謂普通だな。ああ、だが顔はやたらに整ってるじゃないか。この際劇団なり……ジャニーズにでも書類出すか?」

「あなた馬鹿なの!? 芸能界なんかに入れてみなさいよ! 親戚に何言われると思ってんの!?」

 隼人の母親がテーブルをバンっと大きな音をたてて叩く。

「怒るぐらいならなんで生んだ。俺は子供はいらないと言っただろう。子供は嫌いなんだ。俺の血が入ってると思っても愛情なんか湧かん」

 隼人は父親の言葉にびくっとした。

「しょうがないじゃないの! 親戚にどれだけプレッシャーかけられたと思ってるの! 子供はまだか、まだかって。産んだら教育のことでプレッシャー。私、隼人のせいで気が狂いそうよ! 私だって出来の良い子供が欲しかったの! あんな子要らなかったわ!」

 隼人は身体の震えを抑えることができなかった。愛情が湧かないと言った父親。自分を要らないと言った母親。この家に自分の居場所がない。隼人に絶望感が襲い掛かる。気付けば隼人はパジャマ姿のままサンダルを履き、家を飛び出した。

 外は雨が降っていた。

――僕は愛されてない? 僕は要らない?

 あてもなく走る。雨はどんどん強くなり、バケツをひっくり返したような雨を隼人はあびる。

――お母さんの言うとおりにしてきた。塾通いで遊べなくてろくに友達もつくれなくて、でもずっと頑張ってきたのに……

 隼人は公園の木に手をついて随分乱れた息を整えようとした。

「お母さん……お父さん……」

 比較的両親共にクールな性格だとは思っていた。別に暴力を振るわれたり怒鳴りつけられたりしたことはない。隼人は普通の家庭だと思っていた。子を溺愛する親ではないことはわかっていたが、それなりに息子として愛されていると思っていた。その世界が全て崩れてしまった。

「誰にも……愛されない……必要ともされない……」

 隼人は震える声でそう呟くと、木に縋るように泣き崩れた。物凄い勢いの雨にとめどなく溢れる涙。隼人は何が何だかわからなくなっていた。

 

 

「おめぇ生意気なんだよ!」

 雨がざーざーと激しく降る中、学ランの隼人とは別の制服を着た髪色の明るい少年が隼人に殴りかかる。

「うるせぇ! 知るか!」

 隼人は少年の拳を軽々と避けて背後に回り首筋にチョップを入れて崩れ落ちさせる。また別方向から襲い掛かってきた少年2人、1人の胸部に拳を、もう1人の鳩尾に蹴りをきめると2人とも蹲った。

「どいつもこいつも……」

 中学3年生になり、背も伸び、声も変わった隼人は誰が見てもかっこいいと表現される少年だった。表情に明るさはなく、目の色は空虚といった印象を持っていた。

 隼人はイライラした様子で家路につく。家に帰っても、両親とは口もきかない。目を一切合わせない日だって珍しくはなかった。

 鍵を開けて、家に入った。

「隼人、話がある」

 話しかけてきたのは無表情の母親だった。隼人はめんどくさそうに溜息をつくと、母親についていき、リビングへと足を運んだ。

「何だよ。親父まで揃って……」

 隼人は母親の隣に立つ、父親も含め睨みつけるような表情で言う。

「隼人。また喧嘩したんですって? 学校から連絡があったわ。一体どういうつもりなの?」

「どういうつもりもないだろ……向こうが喧嘩ふっかけてきたんだ」

「私はね、あなたみたいな不良に育てた覚えはないのよ」

「ああ、うちには不良の息子なんていない。孤児院から優秀な子供を譲り受ける。おまえはもう家の敷居を跨ぐな」

 母親と父親が侮蔑をこめた視線で隼人を見る。隼人は身体を巡る血が沸騰するようだった。

「俺だってあんたたちみたいな親なんか……! 何で生んだんだよ!? 俺はべつに生まれたくなんかなかった! こんなんになったのだって誰のせいだって思ってんだよ!? ふざけるな!」

 隼人がそう怒鳴ると、無造作に黒のボストンバッグが隼人に放り投げられた。反射的にそれを受け取る。

「最低限の荷物だ。その中に地図と連絡先がある。おまえは今日からそこで暮らせ」

「なんなんだよ……」

「要らないから捨てるんだよ、普通のことだろう」

 父親の冷たい声が隼人に突き刺さる。隼人は何か言い返そう、この父親を殴り飛ばしてやろう、そんなことを考えていた、しかし考えたが何故か行動に移せなかった。

「わかったよ……さようなら。二度と会うこともないだろ」

 隼人は呟くようにそう言うと、家を後にした。外は大雨だった。

 

 

 抜け殻のような隼人は言われた場所へ行った。都内とはいえ郊外。都会とはかけ離れた場所だった。放心状態の隼人を迎えたのは小柄で髪も真っ白な、だが優しい笑顔を浮かべたお婆さんだった。

「まぁま、貴方が隼人ちゃんね。いらっしゃい。今日からここで一緒に住むからよろしくね。私は郁、貴方の遠い親戚。そうねぇ、お婆ちゃんとでも呼んでいいから」

 隼人は優しい笑顔をぼんやりと眺めていた。

「どうしたね? 自分の家って思っていいからね。それにしても男前ねぇ、誰に似たのかしらねぇ」

「ばぁちゃん……」

「ん?」

「俺……いてもいいの?」

「もちろん」

 郁の言葉を聞き、隼人は本当に久しぶりの笑顔を浮かべた。

 

 

 隼人は以前より気持ちが楽になって過ごせるようになった。それでも人との関わり合いに関してはぎこちがなかった。そのまま高校にも何とか進学したがそれでもその部分は変わらなかった。隼人はやはり容姿が良いので、女の子から告白されることもあった、だがそれにより他の人と険悪になることや、少しでも言葉や態度を間違えると冷たくなる周りに隼人は戸惑い、また寂しかった。自分はいつも周りに好まれる振る舞いを考えなければ誰も傍にすらいてくれないのかと。

 高校を卒業し、隼人は近くのスーパーで働くことになった。ある大雨の日だった。

「ばぁちゃん、ただいま」

 隼人は濡れた髪や身体をタオルで拭きながら、居間へと向かう。

「今日はりんご貰ったよ、俺が切ろう……か」

 隼人の目に飛び込んできたのは、畳に倒れている郁だった。

「ばぁちゃん! ばぁちゃん!?」

 隼人はビニール袋を放り投げ、郁に取りすがった。いくら揺すっても、呼びかけても郁は返事もしないし、目も開けない。それ以前に身体が冷えていた。

「ばぁちゃん? 嘘でしょ……ねぇ! 何とか言ってよ! 俺を1人にしないで!」

 隼人は取り乱したように郁を揺すり続けた。電話で救急車を悲痛めいた声で呼び、郁の身体を抱きしめたまま雨が激しく家屋にぶつかる音を聞きながら、隼人は声もなく泣いていた。

 

 

「いつも、大雨でした……俺は、雨が降る度に孤独を味わう……」

 隼人の話を珠姫はただただ聴いていた。

「俺は人に愛されないんです。知ってました、両親が俺を愛してないってわかった日から……人の都合のよいようにしてないと俺はダメなんです。働いてる間、俺はいつも人の機嫌伺って気に入られるよう演技して……そうでもしないと誰も笑いかけてすらくれない」

「私の前で、でもですか?」

 珠姫が少し怒ったように言った。

「演技しないと私も隼人さんに笑顔向けないと思ってるんですか!? 私は、隼人さんは明るくて元気で、優しい人だって思いました。人の笑顔見て、自分のことのように笑える心の綺麗な人だって……」

「お嬢……?」

「演技で隼人さんはあんなに素敵な笑顔浮かべられるんですか!? 依頼主様の笑顔見て優しく微笑んでた隼人さんも嘘なんですか!?」

 珠姫は門を強めに叩く。

「私は隼人さんを信用してるのに、隼人さんは私を信用してくれてないんですか!?」

「俺は怖いんです!」

 隼人の出した大きな声に珠姫は身体をびくっと震わせる。

「あの男が言ってたとおり……俺は、過去不良で酷い奴でしたし。親にも愛されなかった。いつかお嬢に嫌われるって……俺、嬉しかったんです……何の見返りも求めず、自分の利益にもならないのに俺のこと助けてくれたお嬢の存在が。でも、怖い」

 隼人の声は震えていた。

「隼人さん……過去はどんなに頑張ったって変えられません。悔やんでも変わらない。変えられるのは今から先です」

 珠姫の温かく真剣な声を隼人はじっと聴いていた。

「隼人さん、自信をもってありのままの隼人さんでいて下さい。私は、あんな笑顔を浮かべる隼人さん、あれは演技じゃないって思ってます。だったらありのままの隼人さんはとても素敵じゃないですか、私が好きなのはそんなありのままの隼人さんです」

「お嬢……」

「ありのままでいいんです。私はどんな隼人さんでも受け止めて見せます。怖がらないで……私を信じて……貴方がご両親に愛されなかったというならその分私が愛しますから」

 キィと音がして門が開いた。そこには外の世界に怯える雛のような隼人が立っていた。

「お嬢……俺は、愛されたいです。イイ年した今も。愛情に飢えてるんです。こんな俺は迷惑じゃないですか?」

 遠慮がちな隼人に珠姫は木漏れ日のような笑顔を向ける。

「全然迷惑じゃないです。私は、隼人さんと一緒にいたいです。この先もずっと。隼人さん、私と一緒にいてくれませんか?」

「お嬢……お嬢!」

 隼人は目から大粒の涙をこぼしながら、珠姫に抱きついた。

「一緒にいたい……お嬢の傍にいたいです」

「はい。一緒にいましょう。これから楽しく笑って過ごしましょう」

 隼人ははいと何度も言いながら、一層珠姫を強く抱きしめた。

「お嬢、俺べつに泣いてませんからね? 雨が降ってるから……です」

 急に見栄をはる隼人に珠姫は思わず吹き出す。

「ハイハイ、わかってますよ。隼人さんは強い子ですから」

 珠姫は隼人の背中に腕を回し、ぽんぽんと優しく背中を叩いてやった。

「帰りましょう、隼人さん。事務所に。あそこは私たちの帰る温かい場所ですから」

 

 

 火弓解決屋事務所には灯りが灯っていた。その前に緑の傘をさした紫苑が立っている。紫苑は待っていた姿を見つける。そこにはびしょぬれになっているものの穏やかな笑みを湛えた珠姫と右手で目をこすって左手を珠姫の右手に引かれている隼人がいた。紫苑はそんな2人の姿を見て、ふっと微笑んだ。

「お帰りみずたまちゃん……隼人」

「ただいま戻りました、紫苑さん」

「ただいま……紫苑」

 少し不貞腐れたような、照れている様子の隼人に珠姫はまた笑う。紫苑が事務所の窓を見上げると、こちらを見ている八千代と飛鳥の姿が確認できた。

2人ともびしょぬれ。ふかないとね。中に入ろう、飛鳥くんにあったかい美味しいお茶淹れてもらおう」

 紫苑の言葉に2人も頷く。事務所の中に入る3人。隼人は安心して帰る場所を見つけた、安心で涙がまた出てきた。その涙は隼人にとって初めてのあたたかい涙だった。

 

 

 隼人は珠姫の能力を知っても、変わらず、明るく元気で一生懸命。ありのままの隼人でい続けた。2人の間には信頼関係が築かれた。隼人にとってかけがえのない時間が火弓解決屋事務所で流れ始めた。

 

 

「んー、今日は昨日の雨が嘘のように気持ち良く晴れてますねー。っとそろそろお昼ですねー、材料きらしてるから八千代さんが来るまでに買いに行かなきゃ」

 お昼の火弓解決屋事務所。飛鳥はそう言いながら、玄関へと向かう。

「あ、飛鳥さん、私も買い出し行きますよ!」

「ありがとう、みずたまちゃん。じゃあ隼人さん、紫苑さん留守番お願いしますねー」

 珠姫がパタパタと飛鳥について行く。隼人はそんな珠姫を穏やかな笑顔で見ていた。

「はー、ほんと昨日の雨はすごかったよね」

 紫苑がそう言いながら定位置に腰掛ける。

「ね、隼人、訊きたいことがあるんだけど」

「何だ?」

「今日はさー、朝から快晴じゃない? 傘なんて必要ないのにさー、なんでみずたまちゃんの傘が傘立てにあるんだろうねぇ」

 紫苑の目が怪しく光ったような気がした。

「しかも飛鳥くんは気付いてるかわからないけど、みずたまちゃん、服装昨日と一緒だよねぇ?」

 紫苑はねっとりとしたような笑顔を浮かべる。隼人は背筋に悪寒がはしった。紫苑が隼人に顔を寄せる。近いと思ったら髪の匂いを嗅いでいた。

「みずたまちゃんと隼人、同じシャンプーの匂いがする……いつもは違うのに」

 紫苑はそう言うと、隼人から離れた。目を合わせた紫苑は獲物を狙う肉食獣のような瞳をしていた。隼人は思わず後ずさる。

「ねぇ、隼人……どういうことか僕に説明してくれる?」

「ど、どういうことって、何がだよ」

「昨日、解散した後もここにみずたまちゃんいたんでしょ? そして泊ったんでしょ? 隼人もいたんでしょ? 若い男女が2人きり1つ屋根の下……証拠はあがってるんだよ! 正直に吐け! 風野 隼人!」

 紫苑がテーブルをばんっと勢いよく叩く。隼人は何故かはしこまったようにソファーに正座していた。

「な、な、何もない! たしかにお嬢は泊ったけど、それだけ! 俺、何もしてない! 本当だよ! 膝枕してもらっただけ!」

「膝枕……? 何でそんな流れになったのか詳しく教えてもらおうか!?」

 追及の激しい紫苑に隼人は完全に圧されていた。

 買い出しに出た珠姫と飛鳥が戻り、八千代が来る頃には、珠姫とのやりとり全て語らされた隼人は仕事前なのに既にぐったりしていた。

「今日はアスパラとベーコン入りのぺペロンチーノですよ! お昼もちゃんと食べて、元気に仕事しましょうね」

 飛鳥が振る舞うランチを食べながら、隼人はちらりと珠姫を見やる。珠姫はすぐに気付き、隼人に視線を合わせた。

「お嬢……」

「隼人さん、今日も頑張りましょうね」

 珠姫の言葉に隼人は笑顔を浮かべて頷く。

「一緒にいましょうね……安心して下さい」

 珠姫は小声で隼人にだけ聴こえるように言った。

――うん、俺……もう怖くないよ

「はい、俺、ありのままでいるんで、よろしくお願いします」

――やっぱり、俺、お嬢が好きだ

「よっし、さっそくだけど依頼メールきてるわ。解決屋トリオ、内容よーっく聴くのよ!」

 八千代の言葉に、3人がはーいと返事する。隼人はパンパンと両手で自分の両頬を叩き、気合いを入れていた。

「よし! 八千代さんお願いします! お嬢頑張りましょう! 紫苑もな!」

 隼人の元気な声が事務所に活気を与えていた。

 

 

 火弓解決屋事務所。今日も依頼主の悩みを解決する為に奔走します。