8話『無口な少女』

 

 

 夕刻の火弓解決屋事務所。超能力担当の珠姫、体力担当の隼人、頭脳担当の紫苑は定位置のソファーに腰掛け、その後ろに控えるように秘書の飛鳥が立っている。所長席には八千代が座っている。珠姫たちと向かいあっているお客様用ソファーには1人の長いまっすぐな黒髪の女性が座っており、彼女と話しているのは、その傍に立っているセーラー服姿の……青年、葵だった。

「(探し人の連絡先はこの紙の通りです。後は貴女の頑張り次第です)」

 一枚のメモを差し出す葵の口から流暢な広東語が紡ぎだされる。

「(はい、ありがとうございました。きちんと会って話してきます)」

 女性は葵からメモを受け取りながら、お礼を述べ、事務所を後にした。女性に葵はフレンドリーな様子で手を振っていた。

「と、いうわけで今回の任務終了かなぁ」

 葵がくるりと解決屋トリオに向き直る。

「そうだね。今回はあの人に探し人の連絡先を調べてほしいっていう依頼だったし」

 紫苑の言葉にそっかぁと言いながら、葵は伸びをした。

「それにしてもすごいですね、葵さんって中国語話せるんですね……」

「ん、一応ね。でも紫苑ちゃんだって北京語なら話せるよね?」

 葵の言葉にへぇーと驚きの声をあげながら珠姫と隼人が紫苑を見る。

「簡単な会話程度ならね。でも僕が話せるのはせいぜい英語と北京語だけ。葵みたいに何か国語も操れないよ」

「まぁ俺、こういう商売だし。英語、北京語、広東語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語ぐらいかなー。中東の言葉とかも覚えたかったんだけどね」

 葵が軽い調子で言うが、あまりの能力の高さに珠姫と隼人、そしてソファーの後ろで飛鳥も同じように口をぽかんと開けていた。

 そんな呑気な空気が事務所に漂っていると、コンコンと小さなノック音がした。

「あ、依頼者様ですかね。はいはーい」

 飛鳥がぱたぱたと玄関に足早に向かう。ドアを開ける音と、飛鳥の愛想の良い声が聴こえる。いつもなら、にこやかな笑顔で飛鳥が依頼主を伴ってくるのだが……。

「飛鳥さん?」

 戻ってきたのは困惑の表情を浮かべている飛鳥だった。

「ええと、廊下からなかなか入ってこなくて、しかも話しかけても返事がないんですよ」

 飛鳥の困った声に、珠姫が立ち上がって廊下に向かう。伺うようにその人物を見た。赤い少しくたびれたランドセルを背負い、そのランドセルとは似合わない上等そうな茶色のブラウスにこげ茶色のジャンバースカートを履いた肩より少し長い黒髪で顔を隠すように俯いた年の頃10歳もいっていないような女の子が佇んでいた。

「私たちに何か相談事があるんですよね?」

 珠姫は女の子の顔を覗き込むように屈んで穏やかな笑顔と優しい声で言った。だが、女の子は無反応のままだった。

「ん……まさか日本語がわからないとか? 葵に通訳頼むか?」

 隼人が珠姫の背後から女の子を覗き込むように見る。

「いや、それはないと思うよ。名札がほら」

 紫苑も珠姫の背後から現れ、女の子の胸元についていた名札を指す。そこには「緑 唐子(みどり とうこ)」と丁寧な文字が書かれていた。

「うーん……相談事、何かお願いとかあるのかなぁ?」

 珠姫がそう言うと、唐子は屈んでランドセルを開けてプリントと鉛筆を取り出す。そして何か書いた紙を珠姫たちに広げる。そこに書かれた文字を見た瞬間、珠姫たちは凍りついた。

“死にたい”

 唐子が珠姫たちの前に出した紙にはたしかにそう書かれていたのだ。珠姫は言葉を失う。隼人も紫苑も何を言っていいかわからないという表情を浮かべていた。1番に反応したのは笑顔が標準装備の長身細身の青年だった。

「死にたいなんて冗談でもダメだよ!」

 飛鳥は珍しく、大き目の声を出すと、唐子の両肩を掴み、目を合わせた。

「まだ君は子供なんだよ? これから辛いこともあるだろうけど楽しいことや嬉しいことがいっぱい待ってるんだよ? 死んじゃったら、もう……誰とも会えないんだよ? 君を大事に思っている人も君に会うこともできないんだよ?」

 珠姫の前で飛鳥は唐子にそう話しかける。その為、飛鳥の表情は唐子以外には見えない。しかし、飛鳥の声は震えているようだった。

「命を自分から投げ出すなんて絶対ダメだよ……生きたくても生きられない人がたくさんいる。その人の分まで生きられる人は生きなきゃダメなんだよ」

 唐子の表情は虚ろだが、目はしっかり飛鳥をとらえている。言葉を理解はしているように珠姫たちには見えた。

「うちは依頼主様の悩みを解決するのが生業です」

 八千代の落ち着いた声が近づいてくる。スマートな動作で唐子の右隣りの位置に屈んだ八千代は勝気な印象より優しい印象を与えるような表情をしていた。

「だから貴女のお願いも本来なら聴くべきなのかもしれません。ただ、貴女の命を捨てるような真似は私たちにはできません」

「八千代さん」

「こうしましょう。貴女が死にたいと思う気持ちを私たちが消す、いかがですか?」

 八千代の提案にも唐子は虚ろな表情を浮かべているだけだった。長い沈黙。時計の秒針が刻まれる音が耳に響く。しばらくして、唐子はほんの少しだけ首を縦に振った。

「よし、ではこちらへ」

 八千代が唐子の手を引き、お客様用のソファーに座らせる。子供の唐子にはソファーも大きいのか、足をぷらぷらとさせていた。

「じゃ、みずたまたち、解決屋の手腕発揮してちょうだい」

 八千代に言われ、珠姫は頷く。

「では、唐子さん。何故死にたいって思ってしまったかきかせてはくれませんか?」

 珠姫がそう言うも、唐子は何も言わない。珠姫もどうしようと思うが、よく見ると唐子の方も困っているような様子だった。そして、「あー」とか「うー」という言葉にならない声が唐子から小さく漏れていた。

「紫苑ちゃん、これは……」

 出るに出られなかった葵はソファーの後ろで飛鳥と同じように控えていたが、紫苑に声をかけた。

「うん、何となくわかってるよ。唐子ちゃん、君は話さないんじゃない。話せないんだね?」

 紫苑の言葉に珠姫と隼人は疑問符を浮かべるような様子だったが、唐子は悲しそうに頷いた。

「おい、紫苑。どういう意味だ?」

「そのままの意味だよ。唐子ちゃんは別に僕たちと話したくないわけでもない。言葉が話せないんだ」

「わりぃ、俺にはわからない。日本語は通じてるし、耳が聴こえないわけじゃないだろ? 現に飛鳥や八千代さんが言ってることはわかったみたいだし」

 紫苑はちらりと唐子を見てまた珠姫と隼人に視線を戻す。

「唐子ちゃんは失語症なんだよ」

 紫苑の表情は常の冷静にも見えるが重い雰囲気も感じ取れた。

「精神的にかなり傷があるんだと思う。唐子ちゃんに喋らせるのは酷だよ、だからさ」

 紫苑は唐子に借りるよと言うと、彼女のランドセルを珠姫の膝に乗せた。

「みずたまちゃん、手掛かりを探ってほしい。唐子ちゃんが思い詰めてる理由とか失語症に陥ってる原因がわかるかもしれない」

 紫苑の言葉に珠姫は頷く。目を閉じ、ランドセルに両手を添えて意識を集中させた。

「小学校……3年生の教室……」

 珠姫が浮かんだ情景を呟く。超能力を使って手がかりを探す時のいつもの調子だった。

 ドサッ。

 一同が珠姫の集中を妨げないようにしており静まり返っていた事務所に物音がした。物音の正体は、珠姫がランドセルを落とした音だった。

「お嬢……どうしました!?」

 隼人がランドセルを拾い上げ、珠姫の膝に乗せようとしたが、表情を驚きのものに変える。珠姫は汗びっしょりで顔色も青ざめていた。がたがたと震えていて、完全に取り乱していた。

「お嬢、急に具合悪くなったんですか!? あの、どうしよう!」

「とりあえず一旦落ち着こうか。ごめん、飛鳥くん、お水もらえる?」

 慌てる隼人とは対照的に紫苑は冷静に対処する。飛鳥は素早く冷たい水を持ってきて、紫苑に渡した。紫苑が丁寧に珠姫に飲ませ、深呼吸をさせる。顔色は徐々に戻ってきた。

「みずたまちゃん、大丈夫?」

「はい、すみません……これは……酷いです」

 珠姫は少し泣きそうな表情で唐子にランドセルを返した。

「みずたまちゃん、何が見えたか話せる?」

「はい……唐子さん、貴女に何があったか話しても大丈夫ですか?」

 珠姫がそう尋ねると、唐子は静かに頷いた。

「唐子さんは……酷いいじめに遭ってます。教室に入って……何人ものクラスメイトに押さえつけられて、殴られたり蹴られたり……女の子の生徒が遠巻きにそれをくすくす眺めてたり、酷い人はむごい悪口を言ってたり……しかも、信じられないですけど、先生らしき人にも暴力を……」

 珠姫が辛そうな面持ちでそう言うと、また事務所に重い空気が漂った。

「唐子ちゃん、それは毎日のこと?」

 紫苑の言葉に唐子が頷く。

「嫌だったら無理にとは言わないけど、唐子ちゃん、袖まくってみてくれる?」

 唐子は虚ろな目をきょろきょろと動かし、戸惑いの素振りを見せる。目を閉じて、ゆっくり袖をまくると、痛々しい痣で覆われた華奢で白い腕が現れる。

「ひでぇ……そいつら全員ぶん殴ってやる!」

「ぶん殴ったところで意味はないよ」

「じゃあどうするんだよ! あれか? 警察なり教育なんちゃらなりに訴えるのか?」

 今にも事務所を飛び出しそうな勢いのある隼人を紫苑が宥める。

「公にした方がいいと思う、それが正攻法だって思う。でもきっとそれは何の解決にもならない気がする」

「紫苑?」

「いじめは、いじめをやった方を裁くなんて法律もない。傷害罪で検挙できるかというとそういったケースも少ない。大抵がいじめられた方が泣き寝入りするしかない」

 紫苑と同意見なのか唐子は虚ろな目に悔しそうに涙をためる。その様子は精神的にもかなり追い詰められているのがわかり、痛々しかった。

「いじめは理不尽です……助けてくれる誰かがいればいいけど、そんなヒーローなかなか現れてくれません」

 静かな調子でそう言いながら、飛鳥が唐子の傍にしゃがみ、痣だらけの腕にまくりあげられた袖を降ろす。

「いじめられるのはそちらにも非があるなんて心ない人は言います。そんなことないんです。虐げられていい人なんているわけないんですから。唐子ちゃんが悪いなんてことは絶対にないです」

 飛鳥は唐子に微笑みかける。微笑を浮かべている飛鳥は決して珍しくはないが、今の微笑みはどこか寂しそうな印象に見えた。

「僕もね、中学の時いじめられてました。今もですけどひょろっこいですし、当時見た目もがり勉くんっぽかったんですよね。上履きや教科書隠されたり、体操着が捨てられてたり……陰湿で子供じみた内容でしたが、辛かったです」

 初めて聴く飛鳥の過去のエピソードに珠姫たちはただ耳を傾けていた。

「僕はそいつらに負けて死ぬなんて厭だって思うタイプだったんですけど、悲壮感あるんですかね、ぼーっと線路の近くの橋に立ってたらある女の子から“早まるなー”って叫ばれまして」

 飛鳥は少し寂しげではあるものの吹き出すように笑った。

「クラスメートの女の子でした。彼女は僕に必死に言いました。“死んだら会えなくなる、明日も会いたいから死なないで”って。いじめを止められなくてごめんとも言っていました。何故でしょうね、それだけで心がすごく軽やかになったんです」

 飛鳥の過去を知っているのか八千代は意外といったような表情も浮かべておらずクールな様子だった。だが、手が止まっており、彼の話を聴いているのがわかる。

「いじめはその後も続きましたけど、彼女がいてくれたので辛さは半減しました。高校に行ってからはいじめなんてなかったですし、彼女とは恋人になれましたから毎日が幸せでした……でも数年後僕はいじめなんかより遥かに辛いことを知ります」

 飛鳥は少し俯き、前髪で表情がより暗く見えた。

「交通事故で彼女が亡くなりました。バスにトラックが突っ込んで……僕が停留所で降りてから間もなくで……僕は事故をただただ見ているだけでした。何もできないまま彼女は帰らぬ人となりました」

 飛鳥の声が掠れているように聴こえる。唐子もまっすぐ飛鳥を見て、話を聴いていた。

「大好きな人に置いて行かれるのは身を裂かれるように辛い。自分が何かできたはずなのにという後悔も矢のように刺さってきます。唐子ちゃん……自ら死を選ぶなんて絶対ダメです。唐子ちゃんを大事に思ってる方……ご両親にそんな辛い思いさせたくないでしょう?」

 飛鳥は悲しそうだが優しいあたたかい笑顔で唐子に手をさしのべる。

「唐子ちゃんを大事に思ってくれる方のために、生きましょう。それに、僕は明日も唐子ちゃんに会いたいって思いますよ。そう思ってくれる人が他にもいる。少なくても僕はそうだから、生きてほしいです。今は辛くても勇気を出して……ね?」

 唐子は目から涙を流し、飛鳥の手を小さな手で握ってうんうんと何度も頷いていた。

「え? もしかして依頼解決?」

「唐子ちゃんが死にたいって気持ちは捨ててくれたと思うけど……」

 隼人が目をぱちくりとさせながらそう言うと、紫苑も府に落ちないように返す。

「まぁだとしたら飛鳥の独壇場?」

 隼人の言葉に珠姫は苦笑し、紫苑もうんと頷いた。

「でもぉ、それじゃあ解決屋としてはイマイチだよぉ」

 ソファーからぬっと顔を出して葵が言う。背後にキャラの強い存在を忘れていた珠姫たちはびくっとした。

「これから唐子ちゃんいじめにずっと耐えなきゃいけないってことになっちゃうのはかわいそすぎるでしょ?」

「いじめをなくすってこと? そんな難題……」

「まぁ紫苑ちゃんは仕返しして退学に追い込ませるまでならできるしぃっていうかやってたしぃ、なんていうかさすがぁ」

「人をナイス☆腹黒な感じで見るなぁっ! この変態!」

「まぁそれは置いといて。みずたまちゃんもいるわけだし、できる限りの挑戦はしてみてもいいんじゃない?」

 葵は含みのない笑顔で言う。プレッシャーも与えない自然な笑顔だった。

 

 

 翌日夕方、珠姫は駆け足で事務所に入ってきた。パソコンを操作している紫苑とぼんやりとした様子の隼人が定位置に座り、珠姫を迎える。

「すみません、夕方までかかっちゃって」

「いいのいいの、ぶっちゃけこの事務所週休0になっちゃってるし。というかべつに今日1日休んだってよかったのよ?」

 ぺこりと頭を下げる珠姫に八千代が手をひらひらさせながらそう言った。

「いえ、ゼミの用事は夕方までだったので」

 珠姫はそう言いながら定位置の隼人と紫苑の間に座る。

「紫苑さん、どうですか?」

「今日は土曜で明日も日曜で唐子ちゃんは学校行かなくていいから、その間にいろいろ準備を、とね。まず唐子ちゃんに渡そうと思うけど」

 紫苑はポケットから淡い桃色のリボン型の可愛らしいブローチを取り出した。

「わ、可愛い。プレゼントですか?」

「これは、ただのブローチじゃないよ」

 紫苑はそう言いながら、ブローチを珠姫たちに向ける。そして、パソコンの画面も珠姫たちに見せた。その画面には珠姫たちの姿が映っている。

「え? どうなってるんですか?」

「このブローチは超小型のカメラだよ。そして映している映像がそのままパソコンに転送されてるってわけ。もちろんパソコンでデータとして残すことも可能」

「こんなカメラあるんですね……」

「そう。ペン型とかネクタイピン型とか眼鏡型とかいろいろあるよ。そういうのを最近盗撮なんかに使って問題になってるけど……今回はね、僕は本来こういう小型カメラがつくられた目的に反しないように使うつもり」

 紫苑の言葉に珠姫と隼人は首を傾げる。

「唐子ちゃんへのいじめの証拠を掴むよ。みずたまちゃんに見てもらったものが本当なら教師が暴力を振っている可能性がある。それは証拠をおさえて訴えるべきだし」

「やっぱりあれって先生なんですか?」

 珠姫がそう尋ねると紫苑がパソコンを軽やかに操作する。

「昨日唐子ちゃんが帰った後も調べたけど……過去この学区で同じように担任の教師が率先していじめを行ったケースがあった。コミュニティサイトで当時そのいじめられてた子と同学年だった人から情報が得られて、名前もわかった」

 紫苑は画面を珠姫と隼人に向ける。画面には頭髪の薄く真面目そうないかにも教員といった中年の男性の写真があった。

「現在唐子ちゃんの担任でもある今井って教師。今から17年前にも“服装がいつも上等なもので裕福さを出しているのが気に入らない”という理不尽な理由で女子児童に殴る蹴るなどの暴力を振っていたらしい。教師が率先して暴力を振るからかクラスメートからも酷くいじめられて……彼女も失語症に陥ったみたいだね」

「紫苑、その子は大丈夫だったのか……? 今は……」

 隼人が心配そうに訊く。紫苑は安心させるようにふっと笑ってみせた。

「その子は大丈夫みたいだよ。一緒にいてくれる友達もいたみたいだし……何せ今は芸能界で活躍してるんだから、元気ってことだね」

 紫苑の返答を聴き、隼人は安堵の溜息を漏らす。

「服装が上等……唐子さんも」

「そうだね。あの時がたまたまなのかもしれないけど、たしかに唐子ちゃんも裕福な家庭のお嬢さんって感じの格好だったしね……子供同士のいじめでそのリーダーを訴えたりするのも難しいけど、相手が大人、しかも担任の教師なら話は別だ。教師として処罰することは可能だと思う」

 紫苑はパソコンの画面をちらっと見て表情を変えた。

「処罰ができなくても、社会的にいくらでも僕がつぶしてやる」

 紫苑が珠姫と隼人に視線を戻すと、身震いをする2人が目に入った。特に隼人が寒そうに腕をさすっている。

「ん? どうしたの2人とも」

「紫苑、おまえ怖すぎるって……今の表情、絶対良い子に見せちゃいけないもんだったぞ」

「そうですね……せっかくの可愛らしさが台無しな……とてもニヒルな……」

 大抵のことは笑顔で流せる珠姫もひきつったように言った。紫苑は特段表情をつくったつもりもなかったので首を傾げる。つまり、それだけ自然に冷酷な表情を紫苑は浮かべられるということなのだが。

「まぁ、とにかく罪のない女の子をあんなに傷つけてるんだ。裁きは受けてもらわないとね」

 紫苑がノートパソコンをパチンと音をさせて閉じる。珠姫と隼人も同意といったように真剣な表情で頷いた。

 

 

 翌日の日曜の昼、珠姫たちは唐子と近くの児童公園で待ち合わせし、彼女に小型カメラつきのブローチを渡した。唐子は紫苑のかみくだいた説明をきちんと聴いていたが、3人の顔を見、どことなくつまらなそうな表情を見せた。

「あれー? 皆さんここで待ち合わせだったんですねー」

 のんびりとした飛鳥の声が珠姫たちに届いた。食材の入った買い物かごを提げた主婦のような姿で立っている。そちらに唐子はすぐに駆け寄った。

「唐子ちゃんも元気ですかー?」

 唐子はただただ頷いてみせた。飛鳥に頭をわしゃわしゃと撫でられている唐子は少なからず安心しているように見えた。

「すっかり飛鳥くんに懐いちゃったね」

 紫苑はそう言いながらも穏やかにその様子を見守っていた。珠姫も隼人も自然と優しい表情になっていた。穏やかな時間。そんな時間を唐子にもっと過ごして欲しい。そう心から思っていた。

 

 

 月曜。紫苑は珠姫と隼人に作業するから外で時間を潰してきてほしい、夕方まで事務所を空けてくれると助かると告げた。

 彼女たちを涼しい笑顔で送り出し、真剣な表情に戻るとパソコンの画面との睨めっこを開始した。八千代も仕事で珍しく事務所を空けているので今は紫苑と飛鳥しか事務所にはいなかった。

「紫苑さん……」

 飛鳥が心配そうに声をかける。

「飛鳥くんも、見ない方がいいかもね」

 紫苑は飛鳥から渡された紅茶を含み、暗いトーンの声でそう言った。

「証拠をつかむ……つまり唐子ちゃんはまた教師に暴力をふられる。君みたいな優しい子が、唐子ちゃんが殴られてるところなんて見たくないでしょ」

「それでみずたまちゃんや隼人さんも外に出したんですか?」

「みずたまちゃんも君と同じく優しいし、隼人も自覚はないけど清らか過ぎる心の持ち主だからね……しかも暴力とかいじめにはトラウマがそれぞれあるだろうし……」

「紫苑さんだって……そうじゃないんですか?」

 飛鳥の心配そうな様子を紫苑はきょとんとした様子で見返す。

「ありがとう、心配してくれてるの?」

「そりゃ心配ですよ。紫苑さんは事務所の仲間なんですよ?」

 紫苑の目に映る飛鳥は何の含みもなく心配をしてくれている。紫苑はそんな優しい年下の事務所の秘書にふわりと笑って見せた。

「大丈夫だよ。僕はそこまで繊細じゃないし、君たちと違ってなんだかんだいって腹黒いからさ」

 紫苑は伏し目がちにパソコンの画面に視線を落とした。黒板に教師がチョークで板書し、机を並べて児童が授業を聴く、ごくありふれた授業の様子が映っている。時計の秒針がカチカチと鳴る音が妙に響く。以前唐子が来た時と同じように事務所には静寂が流れていた。

「……!」

 紫苑が反応する。画面では唐子が教師に教員用の大きなものさしで殴られた場面が映し出される。唐子の胸元にカメラがあるので今唐子がどんな表情をしているかなどは紫苑たちには見えないが、逆に唐子の目線のように場面が映っているので、よりリアルで恐ろしいもののように目に入ってくる。

「やっ……」

 ものさしが何度も振り下ろされ、真っ二つに割れるのまでが見えた。その様子に思わず紫苑は声を出してしまう。

「紫苑さん……」

「ごめん、飛鳥くん。ちょっとびっくりしただけ……」

 震えをごまかそうと身体を丸めようとした紫苑をそっと飛鳥がソファーの背後から抱きしめた。

「わ、飛鳥くん!?」

「すみません。僕がこうして不安だった時、よく両親や死んでしまった彼女がこうしてくれて安心できたから……紫苑さんにも効果あるかなって」

「僕の方が年上なんだけどね……」

「言わなきゃ紫苑さんが上には見えませんよ」

「失礼な」

 紫苑は苦笑する。だが、飛鳥の優しい、母親のようなあたたかさに紫苑はたしかに落ち着きを取り戻していた。母親のようなとは男性でしかも年下の彼に抱く感想としてはおかしなものだと思いながら。

「そう、あんたたち、そうだったの……」

 目を開けて、声のした方を紫苑は見た。同じく後ろでは飛鳥が固まっている。

「や、八千代さん、帰り早かったですね」

「思った以上にさくさくっと終わってね。しっかし、飛鳥と紫苑がねぇ……デキてたとは」

 八千代はわざとらしく溜息をついてそう言う。紫苑は自分の置かれている状況をやっと再確認した。背後から飛鳥に抱きしめられており、本来は不安を鎮めてもらい安らかに目を閉じていたのだが、恋人に抱きしめられてうっとりしているように見ようと思えば見える体制だった。

「ちっがいます八千代さん! 僕は飛鳥くんとはそういう関係では……!」

「紫苑は隼人が好きかと思ってたんだけどねぇ」

「違いますって! って、しかもなんでそこで隼人……いや、男にそもそもそういう感情は持たないし、僕はみずたまちゃんが好きなんですっ!」

「紫苑さんっ!」

「うわぁっ!!?」

 バタバタと激しい音をたてて、紫苑の前にずいっと現れたのは隼人を伴った珠姫だった。

「み、み、みずたまちゃん、今の聴いて……」

「学校の裏から教室覗いてて……唐子さんが酷い暴力受けて、今カーテン閉まっちゃって心配で……」

 唐子の名前を聴き、紫苑は冷静さを取り戻した。録画をしっぱなしのパソコンに目を戻す。カメラが固定化されているようになっている、要するに動いたりぶれたりしていない。かなり低い位置で、机や椅子の脚が見える。

「まずい、唐子ちゃん倒れてる!」

 紫苑はノートパソコンを手早く詰めて、それを抱えて玄関へと向かう。

「ごめん、行くよ! みずたまちゃん! 隼人!」

 

 

 5時間目が終わるチャイムが鳴る。唐子たち3年生は、今日はこれで授業は終わりだった。

児童たちの習字や図工の作品が壁に貼ってあり、放課後の賑やかなまだ子供らしい高い声がする。とても平和な小学校。そんな雰囲気が漂う中、紫苑は珠姫と隼人に指示を出しながら校内を走っていた。

「じゃあさっき言ったように2人ともお願い」

 32組の教室前に辿り着き、3人は少し息を整え、隼人が思いっきり扉をガラガラと音をたてて開ける。

「失礼します、緑 唐子さん、いますよね?」

 隼人は澄んだ声を張ってそう言った。教室内の児童たちがザワザワとする。隼人はそれにはもちろん臆せず、ずんずんと教室の真ん中に進み、床に倒れている唐子を抱き上げた。

「どうして生徒が倒れてるのに放っておいてるんですか? 担任としてどうなんですか? 今井先生」

 隼人は唐子が小柄で軽いのもあり、難なく横抱きにして立ち上がる。キッと今井を威嚇するほど鋭い視線を浴びせていた。

「そんなこと言ってもだね、いきなり倒れてすぐに対処は……」

「ではこの子が倒れてすぐだったというわけですね?」

「ああ、そうだとも」

 隼人はドアの傍に控えている珠姫と紫苑に目をやる。

「今井先生、それはおかしいですよ。記録上、彼女が倒れてから15分は経過している。これは小型カメラでして、教室の様子が全て記録されている」

 紫苑はノートパソコンで録画したデータを再生して見せる。

「あなたが彼女に暴力をふるったこと、彼女が倒れてから何もせず15分も経っていること。こうして証拠として残させてもらいました」

 今井は硬直したように小柄な紫苑を睨む。そんな紫苑をかばうように珠姫が一歩前に出る。

「ここで話すのはあまりそぐわないですかね。唐子さんもきちんと寝かせてあげたいですし。保健室に行きませんか?」

 今井は不服そうにも珠姫に了承すると、帰りの会を号令で終わらせた。

 

 

 薬の匂いが独特な保健室。先生は留守のようで中はガランとしていた。2つ並んでいるベッドにも誰もいない。

「君たちは一体何なんだね」

「申し遅れました、火弓解決屋事務所の者です。困った方のお手伝いを幅広くさせてもらってますが、便利屋や探偵に近いと考えてもらって問題ありません」

珠姫は八千代から支給されていた名刺を今井に渡した。

「火弓……?」

「大手企業グループの一族ですから名前は聴いたことあるのではないでしょうか。その火弓家の方が運営している事務所なので怪しいものではないと保証します。そしてその事務所にこの緑 唐子さんがやってきたんです。いじめに耐えかねて」

 珠姫は隼人により丁寧にベッドに寝かされた唐子をちらりと見やり、そう言った。

「それで私に非があると責めにきたのですか?」

「はい。子供同士のいじめだけじゃない。それは先ほど録画させて頂いた映像にはっきり映っています。小学3年生の女の子にあんな大きな物差しが折れるまで殴る。これは完全に虐待です」

「教育委員会にでも訴えるつもりか?」

「ええ、もちろん」

 珠姫は臆せず堂々と相対していた。今井はそんな彼女を鼻で笑った。

「教育に従事している人間も民間企業と変わらんよ。保身の為に不祥事ぐらい握りつぶす、公的機関でなく個人の範囲の訴えなんて簡単に退けられるんだよ」

「そうやって……以前同じ学区の違う小学校での虐待も、謹慎処分だけで済んだわけですね」

「随分昔の話を持ちだすね」

 紫苑の出した情報に少し驚きながらも、今井は圧されている印象は感じさせなかった。

「どうしてこんなことするんですか? 仮にも教師なんでしょう? 何もしてない子供を虐待だなんて……」

「何もしてない子供だから腹が立つんだよ」

 今井は吐き捨てるように言った。

「子供は働かずに遊んで……何も苦労していないのに親の稼ぎがいいだけで上等な服を生意気に学校に着てくる。あのガキは双子の兄と同じでロクに努力もしないでそつなくこなしていく。ただ裕福な家に生まれただけで何もせずに幸せでいられる、理不尽だ」

「それが昔の児童への虐待の理由ですか?」

 肯定ととれるように今井は鼻を鳴らした。

「理不尽なのはあんただろ! それになんで唐子ちゃんをまた……!」

 怒りに満ちた隼人を紫苑が手で制する。

「その過去に虐待をした女子児童を、あんたは見てしまった。テレビの画面で、活躍し笑顔を浮かべる彼女を。そして過去の苛立ちが湧きあがり、彼女に少し似ていて裕福な家の子に見える唐子ちゃんにまた虐待を働いた」

「本当によく調べてるんだな。感心するが……君たちの握っている証拠なんて効力がない。君たちは所詮その辺にいる何でも屋だ。警察でもなければましてや弁護士でもない」

 今井は笑いながら、保健室を後にしようとドアの方へ向かう。

「処分しようとかそういう話じゃないんです! こんなことやめて下さい! 唐子さんは言葉もしゃべれなくなってるんです! 子供を傷つけるなんてやめて下さい!」

 珠姫は必死に今井の背中に言う。

「しゃべれなく、ねぇ。昔のガキもそうだったな。ガキは大したこともしてないのに庇護の対象か……笑わせてくれるよな」

 今井の耳障りな笑い声が珠姫たちの耳に不快に残る。珠姫も隼人も悔しそうに震える拳を握りしめていた。

「正攻法はだめか……ならプランBを実行するまでだよ、今井先生、相手が悪かったね」

 紫苑は静かに呟いた。

 

 

月の出ていない夜。今井はカバンを提げ、電車を降りて、人気のない道を歩いていた。

 その時、突然ものすごい突風が吹き、今井のカバンが公園まで飛ばされてしまった。

「な、なんなんだ今の風……」

 ぼんやりとした灯りに照らされただけの砂場にベンチ、ブランコ、ジャングルジムはあるが色の少ない殺風景な公園。今井はカバンについた土を払いながら拾い上げた。

「なぁ、テメー……子供が大人に暴力振るわれるの……どれだけこえーかわかるか?」

 女性ながら低い声がし、今井は声のする方を見上げた。ジャングルジムの頂上のブロックに腰掛けて金色の目で今井を見降ろしている珠姫がそこにいた。

「君、今日の……」

「わかるわけねーよな。わかったらあんなことできねーよな」

 珠姫は地を這うような声でそう言うと、ふわりとした動作で地面に着地した。

「思い知らせてやろうか? 絶対的な力による恐怖をさ」

「はは、どうするというんだね? 君1人で何かできるのか? それに暴力沙汰なんて起こしたら警察が動くかもしれないんだぞ?」

「我ながら、私の力って本当に理不尽なんだよ。そして、何せ都市伝説だからなぁ、警察が動いてくれるかはわからないぞ? 科学的なもの一切無視してるからな」

 珠姫は鬱陶しそうに髪をかきあげ、その手を勢いよく振った。突風が起こる。その突風はふいたというより降ってくるようなものだった。ずしっと重みを感じるような音がした。今井が見るとすぐ右横の地面に大きな穴をあけた。

「結構な重力になるみてぇだな。これで押し潰してやるか」

 珠姫は左肩に右手を置いて、今井を冷たい目で見ていた。

「テメーは教師と生徒、大人と子供という絶対的な圧力の上で虐待した。上から押しつぶすなんてテメーには似合いだろ?」

 珠姫はそう言いながら右手を掲げる。今井は頭上に風を感じ、左横に飛び退く。自分の元いたところは大きな穴があいていた。

「はぁ、逃げられんのか。おもしれぇから鬼ごっこといくか?」

 珠姫は紫苑が以前浮かべていたような冷酷な笑みを湛えると、同じように風で上空から圧力をかけていった。今井は錯乱したように逃げまくり、公園には大きな穴がぼこぼことあいていった。

「はぁ、はぁ……」

 今井は息を切らして、珠姫を見上げた状態で尻もちをついた。珠姫を化け物を見るような目で見る。ガタガタと震えており、恐怖の色を浮かべていた。

「テメーの身勝手な思いで、1人のまだ10歳にも満たない女の子が命を捨てようとしたんだ。過去同じような被害を受けた子だって今は元気でも同じだったはずだ。その重み、痛いほど思い知れ」

 珠姫は腕を掲げ、振り下ろした。風が巻き起こる音と何かが折れる嫌な音、今井の低い呻きと倒れる音がした。

「殺しはしねぇ。その場で何もわからなくなるんだったら償いも意味がねぇからな。ま、骨の数本折るだけにとどめてやる」

 珠姫はそう言い捨てると、ぼこぼこと穴がたくさんあいた公園を後にした。

 

 

 翌日の昼、太陽の光も差し込んだ穏やかな陽気。病室で目を覚ました今井は数人の男性から教員免許剥奪の知らせを受け、部屋と同じく頭も真っ白になっていた。

 

 

「みずたまちゃんはまだ来てないのぉ?」

 事務所のソファーの後ろから紫苑の肩を揺さぶりながら葵がそう言う。紫苑は鬱陶しそうに身体を揺らされていた。

「みずたまちゃんの本業は学生なの。あと少ししたら来ると思うけど……何? みずたまちゃんに会いたいの?」

「違うよぉ。ただぁ、みずたまちゃんと一緒にいる時の紫苑ちゃん見るのが楽しいからぁ。あとぉ、依頼お手伝いしたのと今回の根回し料ちょーだい紫苑ちゃーん」

「はいはい、いくら?」

「紫苑ちゃん、じゃあ1回や・ら・せ・て☆」

「おまえマジでつぶすぞ」

「やぁーん、紫苑ちゃん激しいー! 葵ちゃん壊れちゃうー!」

「おまえな……」

「紫苑ちゃん、そんな低い声出るんだぁ。冗談冗談、はいこれ料金」

 電卓を見て、わかったよと言いながら紫苑が葵にお金を渡す。その様子をぼんやりと隼人が見ていた。

「今回の根回しって何か頼んだのか?」

「葵のパイプラインにマスコミ関係者がいたから紹介してもらって協力してもらった。正攻法じゃ無理だったろ? だからお偉いさんにあの証拠映像見せて、処分しないのならマスコミで教育の実態として流すって言ってやったんだ」

 紫苑は腕組みをして涼しげにそう言った。

「それって脅し?」

 隼人は飛鳥と目を合わせてからそう言った。

「何言ってるのさ、交渉だよ交渉」

 隼人と飛鳥は疑いの眼差しを紫苑に向けていた。

「こんにちはー、すみません唐子さんと会ったので一緒に来ましたー」

 珠姫がそう言いながら、入って来る。唐子は壁からぴょこっと顔を出し、部屋の様子を覗いてから、パタパタと飛鳥の元に駆け寄り、彼の腰あたりに抱きついた。

「唐子ちゃんこんにちは」

 飛鳥はにっこりと微笑んでそう言う。唐子が頷くのを期待して。

「あ……あ……あす……」

 唐子は頷くのではなく、声を出していた。

「あす……か……飛鳥お兄ちゃん……」

 唐子は顔を様子伺いながらといったようにあげる。きょとんとした表情の飛鳥と視線がぶつかった。

「唐子……ちゃん?」

「飛鳥お兄ちゃん」

 今度は先ほどより少しはっきりとした声で言った。

「唐子ちゃん、名前、呼んでくれたね……」

 飛鳥はそっと唐子を抱き返した。やはり男性なのにどこか母性を感じさせる飛鳥の様子に珠姫たちも自然と笑顔になっていた。

「飛鳥お兄ちゃん……私……がんばる。いじめに……負けない……がんばる」

 たどたどしく、かなりゆっくりとした話し方ではあるものの、声に出して決意を述べる唐子。飛鳥は偉いぞというように頭を撫でた。

「あのね……だからね」

「うん?」

「私……大人になったら……お兄ちゃんの……お嫁さんに……なれる?」

 唐子の言葉に珠姫は微笑ましそうにし、隼人はおーと口をあけ、紫苑は苦笑気味、葵はきゃーと言いながら口元をおさえる。飛鳥は目を大きく見開いて唐子を見ていた。

「あらぁ、飛鳥、お嫁さん候補があんたに登場よ? どうすんの?」

 八千代が頬杖をつき、悪戯っ子のような表情で飛鳥に問いかける。飛鳥は顔を赤くして、慌て始めた。

「そ、そんな……唐子ちゃんまだ10歳にもなってないし、早いって!」

「だめ?」

「だめって、あのその……!」

 頭を抱えたり顔を隠したり忙しない様子の飛鳥に、唐子はまた笑った。子供らしい明るい笑顔だった。

 

 

「じゃあね、飛鳥。また明日ね!」

 長い黒髪をポニーテールに結っているブレザーの制服を着た活発そうな女の子が背の高く地味な少年に声をかける。少年はにこっと笑って、乗っていたバスを降りた。少し恥ずかしそうに、だが嬉しそうに少年は停留所からバスに手を振る。窓際に座っている先ほどの女の子とお互いに手を振り合っているのは周りから見ても微笑ましい光景だった。

 バスが走り出し、少年は帰り道へと足を進めた。

 キキーッという耳障りな音と、ドンと何かが激しくぶつかる音が少年の耳に飛び込んできた。驚いて後ろを振り返ると交差点で大型トラックがバスに突っ込んでいるのが見えた。しかも大破しているのは先ほどまで自分が乗っていたバス、それも自分たちが座っていた席の辺りだった。少年はたまらず、事故現場まで走った。結果無残な光景を目にし……。

「あ……う、うわあぁぁぁ――――っ!」

 悲痛な少年の叫びが夕空に悲しくこだました。

 

 

「飛鳥?」

 夜、星が2つほど上空で瞬いている。その下でぼんやりとしている飛鳥に声をかけたのは八千代だった。

「どうしたのよ、ぼんやりして……飛鳥?」

 飛鳥の目からつーっと涙が流れるのを見、さすがの八千代も目を丸くする。

「あ、す、すみません。せっかく唐子ちゃんもしゃべれるようになって、おめでたい日なのに……いろいろ、思い出しちゃって……」

「飛鳥……」

「すみません、あれ? おかしいな、みっともないですよね、男が泣いたり……」

 目を無理にこする飛鳥の手を止め、八千代はそっと飛鳥を抱きしめた。

「こうすると、あんたは安心するのよね」

「八千代さん……」

「いいのよ、男だって辛い時は辛いし、泣きたい時もあるわよ。無理に強がらなくていい、せめて私の前でぐらいは……」

「もう……八千代さんは……。敵わないなぁ……」

「そりゃあんたより10年も長く生きてるからね」

 八千代の相変わらずな勝気な言葉にふっと飛鳥も笑みをこぼす。

――ほんとに敵わない。僕が八千代さんの下で働きたいって思ったのは……彼女に似てたから……。勝気で男勝りで……優しいところがそっくり……。

 飛鳥はただ八千代のあたたかさに包まれて星が見守る中、佇んでいた。

 

 

翌日の夕方、飛鳥の淹れたお茶を飲み、事務所メンバーの5人はくつろいでいた。

「今日も唐子さんは無事学校に行ったようです」

「今回も依頼解決、任務完了ね」

 八千代がパソコンから目を離し、伸びをしながら言う。

「あ、今回のお代って……」

「僕が払いました」

 珠姫のふとした疑問に飛鳥が笑顔で応える。

「そりゃそうよ。だって未来のお嫁さんだものね」

「ち、違いますって! 僕と唐子ちゃんじゃ16も離れてるんですよ!」

「愛があれば年の差なんて……」

 完全にからかっている八千代に飛鳥は珍しくムキーっとなっていた。

「あの先生はこらしめたしもう教壇には立てなくしましたけど……」

「いじめはそう簡単には解決しないよ」

 紫苑の言葉に一同が頷く。

「なぁ……なんでいじめってあるんだろうな」

 隼人の問いかけに事務所が鎮まるようになる。とても簡単に答えられる質問ではなかった。

「私、思ったんです」

 沈黙を破ったのは珠姫だった。

「いじめって満たされてない人がするんじゃないんでしょうか……」

 そう言って、珠姫は手にしていた紅茶の入ったカップをテーブルに置いた。

「成績でも人間関係でも経済的、社会的地位……劣等感を感じている人がその沸々とした不満を正当に発散できず、他者を害する。それがいじめだと思います。自分の劣等感をごまかすために、自分より不幸な人をつくる。“自分はこいつよりはマシだ”って……」

「それはあるかもね……いじめをする人で優等生とか人気者とかそういう人はいない気がする」

 珠姫の言葉を受け、紫苑も同意する。

「いじめはたしかにやる本人が悪いと思います」

 飛鳥が目線を落として言った。

「でもそういう劣等感を与えさせてる原因にも充分問題はあると思います。成績が悪いと頭ごなしに叱る教師や親。ひたすら周りと比べて劣ってると言う人たち。そんなものさし1つで決めつけないで、それぞれを認めあえる環境にする必要があるんだと思います」

 飛鳥はまっすぐ前を向いた。いつもの笑顔ではなく真剣な表情だった。

「助け合い、支え合うのがあたりまえな社会。競争ではなくて協力。そう……できたらいいなって。理想ですけど……必要なことだと思います」

 飛鳥がそう言うと、カタンと音がした。飛鳥が後ろを見ると、席を立ち、外を見る八千代が目に入る。

「ほんと、途方も無い理想……。私たちが動いても社会が変えられるなんてそんなの無理……でもさ」

 八千代は珠姫、隼人、紫苑、飛鳥とそれぞれ少しずつ目を合わせた。

「たった1人でも助けてあげられれば充分。欲を言って1人でも多くの人を助けてあげたいじゃない? 社会を変えるなんてできなくても。できることからさ。私はそう思ってこの事務所運営してくから。あんたたちも、一緒に少しでも多くの人、助けようよ」

 八千代の笑みに珠姫たちは、力強く応えた。

 すると、コンコンとドアをノックする音がした。

「はーい、今出ますねー」

 飛鳥が足早に玄関へと向かう。

「さて、今日も依頼解決に向かって頑張るわよ!」

「はい! もちろんです!」

 珠姫たちの威勢の良い声が事務所の心地よく響いた。

 

 

 火弓解決屋事務所。今日も依頼主の悩みを解決する為に奔走します。