#1

 

 

 

 

 

 人生とは全くわからないものである。なんてありがちな言葉だと思っていた。

そりゃあそれなりに思ってもみないことが起こって、なんてことは普通にあることだ。私はそう思いながら、ごくごく普通の人生を歩んでいた。

それが今は……その言葉を噛みしめるような人生だと思う。ほんと、ここ数年で私の人生は、そして私の世界は予想だにしなかったものになった。小さなものからとてつもないものまで、私はちょっと前、3年前までは思いもしなかったことが起きているのだ。

まず、小さなものといえば……この髪型。ロングヘアーがトレードマークだった私が肩辺りで切りそろえたおかっぱ頭をするなんて全然思ってもみなかったなぁ。それもあんまり違和感がないのが意外だ。最初は兄さんに言われるがままだったけど、今はこれが私らしいような気さえしている。

そして、今、ちょっと遅い朝ごはんの仕度をしているのだが、オムレツにレタスやミニトマトを添えて、コーンスープ、トースト、洋食だね。しかし、この私が、お湯さえまともに沸かせなかった私が、いっぱしにエプロンなんかつけて料理をするとはね。今は朝ごはんだからわりと軽くだけど、一通り料理はこなせるし、家事全般できる。

他にも小さな変化はいろいろあるのかもしれないけれど……とてつもない変化。何と言っても私の職業だろう。私は大学卒業後、それなりにコマーシャルでも名前を聴く大企業に就職した普通の会社員だったが、病気で退職。その後、仕事を探すつもりだったのに、まさか私がお笑い芸人になるなんて。兄さんが“お笑いの頂点を目指す!”と豪語してた時、私は長い下積みでも積んで、少しはテレビに出られるようになったらいっちょまえだな、なんて思っていたのに。運が良すぎると思うほどにテレビのネタ見せ番組にも出たり、コンビ結成したその年にM-1決勝3組に残って一躍注目されるなんて。それからはとにかく忙しかった。芸人として恵まれ過ぎていると思うけど、やっぱり大変なこともいっぱいあったし、もうダメだと思うこともあった。でもいろんな人の支えがあって、去年の年末、3回目の出場で第一の目標にしていたM-1チャンピオンにもなった。棚に飾ってある優勝した時の写真は誇らしい。私が泣いててぐちゃぐちゃな顔してるのはマイナスだけど。

交友関係もガラリと変わった。数年前はテレビを通して見ていた人たちが今は先輩や仲間という存在なのも驚きだ。若手芸人で1番大好きだったワカス、特に大好きな若山さんは一緒にツッコミを勉強したりもするし、遊びに連れてってくれる、実は性格に難がある人だけど私には優しい事務所も一緒の先輩だ。それから母親と見に行った舞台、ラジオでのトークと爽やかな声にファンになった声優の仕事もこなす舞台俳優の上條さんともお昼の帯のレギュラー番組や声優の仕事でご一緒して親しくさせてもらって、いろいろ相談にのってもらったり今やお兄ちゃん的存在だし。他にもいろんな芸人さんや声優さんを中心に売れっ子さんの芸能人の方たちとわいわい騒げる間柄になっているのはやっぱり驚きだ。

芸人として生活が成り立ってる……むしろ会社員時代より収入も全然多いっていうのも本当に驚きなんだけど……もしかしたらそれ以上に驚きかもなぁと思うことは……。

「ひぎゃっ!」

 私がそんなことを考えていると、背後から突如重力がかかる。主に背中と肩にGがかかっている。不快ではないんだけど、やっぱり重いな……。

「もしもーし、重いですよー、寝ぼけてるんですかー? 朝ごはんできてますから、とっとと顔洗って着替えて目覚ましてくださーい」

 私はそう言いながら自分の身体に回された腕を外し、背後に向きを変える。

「む〜、おはよー、琴ちゃん……」

 背後に現れたその男性は、目を擦りながらぼんやりとした様子で私に挨拶する。手をどけると、女性が羨ましがるであろう透き通るような白いきめ細やかな肌、長い睫毛に覆われた切れ長の瞳、すっとした鼻筋に形の良い唇、常人とはかけ離れた程整った顔が現れる。

「おはようございます、雄輔さん」

 正統派美形俳優として有名な雄輔さんがだぼだぼのパジャマを着て、ぼーっとした表情で、もとから癖のある艶やかな黒髪も寝癖で爆発してて、なんだか間抜けで可愛らしい。可愛いって言うのは変なのかな、雄輔さんの方が7つ年上だし。でも可愛いものは可愛い。

「さ、言った通り朝ごはんはもうできてますから、早く仕度して下さい、冷めないうちに」

 私がそう言ったのに、雄輔さんは私をじっと見たまま動こうとしない。

「おはようのチューは?」

 ピシッ。私の脳内に音がしただろう。34にもなって男が“チュー”って引かない!? 何その甘えたキャラ!? そしてドン引きしたいところなのにそこまで気持ち悪くないのがなんだか逆にはらただしい。いいよね、外見の良い人っていうのはこれだから……。

「してくれないと動かないもーん」

「……はぁ、じゃあ屈んで下さい。そのままじゃ届かないですから」

 私は溜息をつきながらも、20cm程小さい私の高さに合わせて屈んだ雄輔さんの肩に手を置き、じっと見ていると見ているこっちが恥ずかしくなってくるほどの綺麗な顔に自分の冴えない顔を近づける。

「あの、雄輔さん、毎度思うんですけど……」

「ん? なに?」

「私、本当にこういう経験ないのでよくわかってない方だとは思うのですが……こういうのって普通男性がするんじゃないんですか?」

「んー、でも俺、琴ちゃんにされるのが好きなの」

 雄輔さんはそう言って、目をつむる。私はまた溜息を漏らし、相変わらず慣れない様子で自分の唇を雄輔さんの柔らかい唇に押し付ける。少ししてからゆっくり離すと、雄輔さんは満足そうな笑顔を浮かべていた。

「じゃあ仕度してくるー」

 パタパタと足音をたてて、洗面所に向かう雄輔さん。私はあたたかい感触を残したままの唇に手をそっと触れる。

「もう……本当相変わらず恥ずかしい人なんだから……」

 恥ずかしい、すごく恥ずかしい。なのに……物凄く幸せを感じてしまうのは、私も末期なのかもしれない。

 芸人として忙しく仕事をしているのと同等、いやそれ以上に驚くべき事項は今のこれ。私は学生時代の時からテレビでよく見ていた、美しい容姿と幅広い演技力で大人気の俳優、小野田雄輔と法律で認められた正式な夫婦関係にある。

 燃え上がるような情熱的な恋愛を経たというわけではない。困難にぶつかったことはあったけど、私たちはもっとのんびりした、ほんわかした感じの恋愛を経て結婚に至ったという感じだ。周りから清らか過ぎる交際って言われたし……うん、雄輔さんが25歳までお付き合いなんかしたこともなかったという恋愛経験0の私に合わせてくれたんだけど。

そんなお付き合いも1年半ほどあって、今は、私は芸人として雄輔さんは俳優として、更に上のステージを目指し、夢を追いかけるのをお互いに支え合っていこうと、こうして結婚して一緒に暮らしている。

 都心部だけど学校が多い地域で閑静な住宅街やちょっと有名な庭園があったりするこの辺りの場所は私の実家が近いというのもあるけど治安も良くて落ち着いた街だからと雄輔さんと相談して住むことにした。家族で住んでる人が多いオートロックのマンション。超人気俳優とそれなりに仕事をもらってる芸人の共働きだけれどそんなに豪勢な家ではない。   部屋の中もテレビで見る芸能人の家というような派手さは全くない。家具は木製の落ち着いた感じで統一していて、白とクリーム色と木の色のあたたかい感じの部屋が私は結構気に入っている。リビングで1番気に入っているのは写真立てが並べられた棚。結婚式の写真、M-1チャンピオンになった時の写真、雄輔さんが主演男優賞を獲った時の写真、和楽器ユニット「大和心」をはじめ一緒に仕事してきた写真、私と雄輔さんもレギュラーで出演している番組のみんなで撮った写真、芸人さんや声優さんという大事な先輩や仲間との写真、出掛けた時に何気なく撮った写真。どれも輝かしい笑顔で映った写真ばかりだ。

「琴ちゃーん、着替えた〜」

 甘さはあるけどメディアで見せるより間延びした声で雄輔さんが言いながら歩いてくる。

「はい、じゃあ朝ごはんにしましょう」

 午前10時。土曜日、世間では大体はお休みなんだろうけど、芸能界に身を置く私たちに土日休みという概念はない。私も雄輔さんも今日も仕事だ。私はちょっと急ぎめでごはんを食べて、片づけも手早くして身支度を整える。肩かけかばん――母親に郵便屋さんか幼稚園児スタイルと呼ばれた――を提げて玄関に向かうと、雄輔さんが見送りについてくる。

「琴ちゃん、今日の仕事は?」

「今日は昼からネタ番組の収録と、雑誌の取材を受けて、夜はバラエティ番組の収録です。ちょっと遅くなっちゃうかもです……あの先輩芸人の番組、収録時間長いで有名だから」

「そっかぁ、大変だね。じゃあ今日は俺の方が早いかな。ドラマのロケだけど俺のシーンは夕方までには終わらせなきゃいけないはずだから」

「夜ごはんどうしますか? 遅くなってもいいならつくれますけど」

「うん、俺は琴ちゃんのごはんが好きだから、できたらつくってほしいなぁ」

「はい、了解です。手早くつくれるものにしますね」

 靴を履いて、いつもの通り手を差し出す。私の手の甲に雄輔さんが手を重ねる。

「今日も良い仕事を」

 2人で恒例の言葉を言ってから、私は家を出発した。

 

 

 季節は秋。まだ寒くはなっていなくて、過ごしやすい時期。業界的には新しいクールが始まっている。私はずっと続けているレギュラー番組にラジオ番組も健在、声優の仕事が新しくまたはじまって、深夜のレギュラー番組が新しくはじまったぐらい。あとはひな壇とかネタ番組にいろいろ幅広く出演させてもらっている。

「よっす、おはよーさん、琴子」

 庭園の入り口で黒のロングヘアーと茶色のロングスカートを靡かせた、長身の雄輔さんより更に背の高い人物が私に声をかける。自信に満ちた勝気そうな笑顔がよく似合っている。アラサーのイイ年した男なのにこの格好がもう違和感がないのはさすがだ。

「おはよう、兄さん。今日もよろしく」

「ああ、しっかりネタは練りこんできたか?」

 兄さん、河原田銀慈。私の双子の兄。女装のキワモノ芸人としても有名だけど、正統派漫才ができて、トークもでき、演技や歌もなかなかで一橋大学卒のインテリ芸人とマルチな才能を発揮している。そしてこのロングヘアーは鬘で、それをとって普通の格好をするとモデル顔負けの結構なイケメンだったりする。

「当たり前だよ。いろいろ仕事やってるけど、私たちの本業は漫才師だからね」

「その通りだな」

 兄さんが手をあげると、ワゴン車が私たちの前にとまる。マネージャーが出してくれている車だ。タクシーで移動することも多いけど、琴ちゃん銀ちゃんとして2人揃っての仕事の時はマネージャーが送り迎いをしてくれている。今うちの事務所ではワカスと私たち琴ちゃん銀ちゃんが稼ぎ手なので大事にしてもらっているらしい。

「よし、客入りの収録だし、M-1チャンピオンの名に恥ずかしくないよう、爆笑とるぞ」

 車に乗り込み、私たちは現場へと向かった。

 

 

 

 

 私のお笑い芸人としての軌跡、雄輔さんと結婚するに至った軌跡。どちらも最初は私がこの道に進むところからはじまる。そう、転機は私が24歳になってまだ間もないぐらいの日のことだった。

 

 

 

 

 6月、まだ梅雨という感じではなく、今日も青空が広がっている。冷房をいれるほど暑くもなく窓をあければそれなりに快適な季節だ。

 普通なら予定もなく、こんな日ならうきうきして出かけたくもなるんだろう、そんな気がした。でも、私は午前中に久しぶりの外出をして、帰ってきてからいつも通り自室に籠っている。

自分の部屋を見渡す。6畳半の洋室。私が今入っているベッドはセミダブルで1人用には広いのだけれど、ぬいぐるみがわんさか置いてあって、さほど広さは感じない。寝がえりはうちやすいけど。机や本棚、タンス、全てが木製の落ち着いた仕様だ。家具は落ち着いたものが好みなのだけれど、可愛いもの好きな私の部屋にはベッド以外にもぬいぐるみが多くあって、我ながらファンシーな感じになってしまっている。本棚は、左側は大学で専攻した心理学の本や、周りから勧められた小説、趣味で続けている箏の楽譜などの関連書籍など比較的堅い仕様だが、右側はお笑いDVDや漫画、ライトノベル、アニメDVD、ドラマDVDCDは流行りの曲というより声優さんの歌やアニソンあとは箏関連と物凄く変な感じになっている。

私は世間に言う引きこもりでニートだ。とはいうものの、実は今日まで身分としては会社員だった。今年に入ってから体調が優れず、4月には仕事ができないはおろか、職場で座っていることも困難になって、上司に勧められて休職。自宅療養ということで引きこもり生活がはじまった。でも2カ月引きこもりながらいろいろ考えた結果、今の会社で何をしていきたいとか希望もなにもなくて、今日付けで退職してきたのだ。

4年制大学出てまで、ニートかぁ……何してるんだろ」

 中堅大学を出て大企業に就職して、仕事もできてる方だったけど……、今やこの状態だ。私に甘い両親は“一生暮らしていけるだけのお金はあるんだし、別に無理して働かなくてもいいんだよー”なんて言ってるけど……。仕事しないと。

『人を笑顔に』

 胸にずっと引っかかっている言葉を思い出す。人を笑顔にしていくことを仕事にできたらいいなと思っていた。その言葉を胸に、生き方を探して仕事してきたはずだったのに、結局上手くいかなかった……。私はこれから何をしていけば……。

 私がそう思考を巡らせていた時だった、無遠慮にドアが思いっきり開かれる。

「よう! 琴子、しけた顔してんなぁ!」

 偉そうな声、言い方が耳に届く。ドアのところに腰に届きそうなストレートの黒髪、ふくらはぎまで覆っているロングスカート姿の180cm以上の長身が現れる。こう言うと随分背の高い女性だと思われるだろうが、そこにいたのは私の双子の兄だ、つまり男。

「別に、しけた顔をしているつもりはない……私はいつもこの顔」

「そーか? 学生時代はもうちょっと覇気があったような気がしたんだけどなぁ。ま、とにかく今日で退職してきたんだって? 一応お疲れ様でした」

 女装の兄、河原田銀慈が近づいてくる。私はベッドに座ったまま兄さんを見上げる。

「兄さん、今日、バイトは?」

「あ? ファミレスのバイトなら辞めた、めんどくせーし。正直、学生時代からやってた家庭教師やら塾講師やらのバイトで貯金もあったうえに俺的財テクとかで金は充分あるからな、めんどくせーバイトは辞めといたわ」

 兄さんは右手をひらひらさせてそう言い、左手で髪――地毛じゃなくて鬘だけど――をかきあげる。

「で、おまえはどうすんだ? いつまで引きこもってるんだ?」

「うるさいな……馬鹿にしてるんでしょ、会社員すらまともにできなくて……」

「あの会社はおまえにはあわねーよ。いくら大企業だからってブラック企業だぜ?」

 兄さんは当たり前のように言ってのけると、腕組みをして、私の目をまっすぐ見た。

「今、やりてー仕事はとくにねーな?」

「まだ、全然決めてない」

「よし。どっかに嫁に行く予定もねーよな?」

「……嫌味? 知ってるでしょ、私が誰とも付き合ったことないこと」

「まぁ、いたらいたで俺がそんな虫駆除するけどよ」

「どういうこと?」

「いや、気にするな。ちなみに仕事はしてーか?」

「一応……」

OK、お笑いは好きか?」

「……何かいきなり方向転換した?」

 私は意図が掴めないようにそう訊き返すと、兄さんは両手をベッドについて身を乗り出し、私に顔を近づけてきた。真剣な表情をしていると、女装をしていることを忘れるほど精悍な顔立ちの男前だ。双子ながら顔つきは似てなく、妹目線にもカッコイイと言える顔立ちがムカつく。女装なんかしなきゃいいのに。

「漫才師になりてぇから、おまえ芸人になれ」

「は!?」

 最近出した声では1番大きな声を出した。驚きの声と言えるものだと思う。

「俺とコンビ組んで、漫才やろうぜって誘ってんだよ」

「ちょ、何で私が……兄さんが芸人なのは知ってるよ、事務所にも所属してるし。ピン芸人から漫才師に転向したいっていうのもわかるとして……何で私なんか」

「双子だし、手っ取り早いだろ? どーせ仕事も辞めちまったんだし」

「手っ取り早いって……同じ事務所の人とかは? 養成所の同期とかいるでしょ?」

「イイのがいない。ちなみに俺はボケ希望だから、ツッコミ探し中な。で、おまえ普段からツッコミだろ? いいじゃねーか。俺の周りの奴じゃおまえが1番見込みあるんだよ」

 兄さんはそう言いながら、私の胸元まで伸びている真っ黒な直毛を摘まんで何やら考えこむように唸って、手を離したかと思えば今度は頬に手を添える。

「んー、イマイチおまえって地味なんだよな……美人ってタイプでもねーけどブスじゃ全然ねーし、ちょっと中性的か? しかし一発で覚える顔じゃねーよな」

「何なの、堂々と見た目批判ですか……ってひゃっ!」

「痩せてもねーけど太ってもねーな……うーん、貧乳でも巨乳でもねーしキャラが……」

 兄さんが本当にデリカシーなく、身体を撫でてくる。おまけに、今、む、胸……。

「ちょっと! どこ触ってんの!? 双子の兄妹だからって気安く胸揉むな!」

「あ? ああ、わりぃ。意外に柔らかかったからつい……」

「変態か!? いや、訊くまでもなく変態か! イイ年して実の妹にセクハラして楽しいか!?」

「言いがかりはよせよ! 俺は女には興味ねーよ! 男にしか欲情しねーんだよ!」

「堂々と変態宣言するな! このガチホモ女装男!!」

 私はまくしたてるように言って、息をきらす。兄さんとは決して険悪ではない。うちの家族は仲が良い方だし。だが、はっきり言って苦手ではある。この通り変態だからというのもあるのだろうけど、いろいろムカつくのだ。女装のキワモノの癖に顔も精悍で整ってて、身長高くてモデルみたいな体型してるとことか、運動神経も良いところとか、通ってた中高の男子校の校風もあって柔道も剣道も有段者――兄さんの学校は段をとらないと進級できなかったらしい――と今時の頼りない男とは無縁なところとか、ピアノやチェロをさらっと弾いてしまうところとか、成績優秀で現役で一橋大学行ってストレートで卒業してしまうところとか。変態の癖に能力が無駄なぐらい高くて、私には劣等感をつきつけられる相手だ。

「私がいかに華がないかは確認できたでしょ。芸人、ひいては芸能界なんて華のある世界には向いてないの、わかったらとっとと……」

「よし、まずはイメチェンだな!」

「人の話聴いてた!? わ、ちょっ!」

 兄さんは私の左手首をがっちりと掴むとベッドから私を引きずり出し、そのまま部屋の外へと連れ出す。階段もずんずん降りて行き、玄関へ向かう。

「あれー? 銀ちゃん、琴ちゃん連れてどうしたの?」

 リビングから母親が出てきて、のんびりした口調で訊いてくる。

「いつもの美容院行ってから池袋まで出てくるわ。晩飯までには帰ってくっから」

 兄さんはそう言いながら、玄関の棚の上に置いてあったハンドバッグを肩に提げて、やはり私を離すことなく家を後にした。

 

 

 歩いて、家族では私、兄さん、母親が行っている美容院まで来る。ガラス張りのドアを開けると、カランコロンという涼しげな音がする。

「あら、河原田さんご兄妹、いらっしゃいませ。兄妹揃ってなんて珍しいですね」

 いつも担当してくれている女性の美容師さんが出迎える。この女装全開の兄を見ても驚かないのは長年の付き合いの賜物である。

「こんにちは。今日は妹のカット……ああ、シャンプーもお願いします」

「かしこまりました。髪はいつも通り揃えるぐらいでいいですか?」

「いや、えーとそうだな……」

 兄さんはおもむろにハンドバッグからメモ帳とペンを取り出すと何かをサラサラと書いてから美容師さんに見せる。

「こんな感じで……」

「成程。結構バッサリなんですね。わかりました。では妹さん、シャンプー台へ」

 美容師さんがいつもの通りに案内する。

「じゃあ琴子、俺はこっちで待ってっから」

 

 

「はい、できましたよ」

 鏡の前で美容師さんが明るく言う。私はすっかり短くなった髪を見て固まっていた。

「短い……」

 肩辺りで切りそろえられた髪の毛先を触る。洗ってもらったのもあって、自分で適当に洗ってるのとは違って手触りはよかった。

「おー、終わったか」

 ひょっこり兄さんが現れる。

「やっぱ感じ変わるな。座敷童みたいで可愛いじゃん」

「それって褒めてんの?」

 兄さんがけらけら笑いながら、シャンプー&カット代を支払う。

「あ、一応今日のもろもろは俺もちな」

「え?」

「おまえより俺の方が金あるからな」

「私だって1年間正社員として働いたお金が……」

 兄さんが私の耳に顔を寄せ、自分の貯金額を小声で発表する。

「え!? そんなに!?」

 私は自分の5倍はある貯金額にとびあがって驚く。兄さんって芸人だけど正直全然売れてないし、え、学生時代からのアルバイトとかってそんなに給料良かったのかな、それとも俺的財テクとかよくわかんないので儲けてるのかな? だってその貯金額、私たちぐらいの年齢の会社員じゃ無理じゃないの?

「ま、そういうわけだから。よし、次は池袋のデパート行くぞ」

 兄さんはそう言うと、また私の手首をがっちり掴み、美容院を後にした。

 

 

 正直、池袋には行きたくなかった。いや、べつによく行く場所――最近は行ってなかったけど――なんだけど、この女装男が隣にいる状態は嫌だ! おまけに背が高いからめちゃくちゃ目立つ。あー、もう道行く人が奇異の視線を向けてるよ!

 人が行き交う駅を抜け、エスカレーターで東武デパートの婦人服売り場へあがる。

「よし、とにかく明るい色の服を買おう」

「何故?」

「おまえ、黒とか茶色とかグレーとか、なんか地味―な色のが多いじゃんか。ぱっと見の印象が暗いんだよ。ま、俺がトータルコーディネートしてやっから」

 

 

 それからは着せ替え人形のようにいろんな服を着せられた。スカートは私が抵抗して何とか膝丈にはしてもらった。私も兄さんが履いてるようなロングスカート派だったから膝丈でも充分短く感じる。あとはわりと大学生時代周りに多かったチュニックにズボンという服装とか。ピンク、黄色、エメラルドグリーン、白など明るい色合いのものを選ばれ、兄さんは気に入ると次々と購入していった。本当にお金持ちだな……我が双子の兄ながら。

 本当にお金に余裕のあるらしい兄さんは、荷物あるからな、とタクシーに乗って家まで帰った。もちろん私も同乗して。池袋から自宅まで、そんなにタクシーでもかからないけど、私なら使う移動手段は山手線かバスかだ。

 

 

 久しぶりに外出して、しかも兄さんのせいで奇異の視線を向けられて疲れた。私はごはんを食べて、ベッドに突っ伏した。母親が私の髪型にびっくりしてたな。

「ふぅ、とりあえず、イメチェンしたかっただけなのかな……」

 私がそう呟くと、デジャヴのように無遠慮にドアが開かれる。

「おい、琴子、さっそく引きこもるなよ、まだやるべきことがあんだからよ」

 私は起き上って、兄さんをめんどくさいものを見るような目で見てやった。

「何、やるべきことって……」

「漫才師になるんだぞ? ネタ覚えないでどーする」

 兄さんは、私に書類の束をつきつけてきた。そこには銀、琴とふられた台詞が並べてあった。

「何?」

「漫才の台本、とりあえず3つあるけど、上のから優先的に覚えろ」

 ざっと目を通して見る。琴とふられているところの台詞はきちんと私の口調になっていた。ん? 私は今日会社辞めてきたんだよね。で、てっとりばやいからって兄さんは私を相方に誘ったんだよね? なんで私って設定されてるネタが3つもできてるんだ?

「そのネタもって、事務所に行くからな」

「事務所? 兄さんの? ああ、私も所属しなきゃいけないとか、か」

「言っとくけど、俺は事務所変えるぞ?」

「へ?」

「今の事務所、ぶっちゃけ微妙……いや、実力派の芸人も出してるぞ? でもなんていうかゆるいからか若干礼儀なってない芸人が増えてる気がして……親もあんま好きじゃないらしくてな。俺、あそこの事務所行こうと思ってんだ。ワカスのとこ」

 兄さんが言って、思わずキョトンとする。

「おまえ、好きだろ? ワカス……というか若山さんが。せっかくだから好きな漫才師がいる方がいいと思うんだが」

「う、うん……そうだけど、さ……っていうか、私芸人になるのはもう確定なの?」

「確定。嫌でも引きずってくぞ」

「横暴〜」

「ま、もし上手くいったら若山さんに会えるぞ〜」

「それは魅力的だけど……」

 ワカスとは、若山昌真さんと粕谷俊彦さんによる漫才師コンビだ。若山さんの「ワカ」と粕谷さんの「カス」を合わせて「ワカス」らしい。派手なスーツと黒縁眼鏡姿に堅い口調の教師キャラで淡々とボケる粕谷さんにハイテンションでツッコむ若山さんという漫才スタイルで去年からちょこちょこネタ番組で見かけるようになり、年末のM-1グランプリで優勝して一躍脚光を浴びた。若山さんのあのキレのあるツッコミと童顔の可愛らしい容姿が結構好きだったりする。

「よし、じゃあ今週中にはネタを覚えて来週から特訓。月末には事務所に持ってくからな」

 兄さんは念を押すように私にそう言うと、部屋から出て行った。

 芸人ね……。私は高校生ぐらいからお笑いは結構好きでお笑い番組をよく見ている。でも見るのが好きなだけで自分が芸人になろうなんて考えたこと全くなかったわけで。不遇の時代が続いて、やっと芽が出る。それがどれだけ数少ない世界か。そして芽が出ても消えていく人たちもいるんだし。私なんかがやっていける世界じゃないと思うんだけど……。でも……。

『人を笑顔に』

 ネタやトークで笑わせるのが常の芸人……もしかしたらこの世で1番人を笑顔にできる仕事なのかもしれない。

「どうも〜、琴ちゃん銀ちゃんです。私たちこう見えても双子なんですけど……」

 兄さんに渡された台本をなんとなく読みあげる。

「……っていうかコンビ名、琴ちゃん銀ちゃんなの?」

 根がまじめな私は台本に更にツッコミを入れながらも、覚えこんでいった。

 

 

 翌日、両親に私を芸人にすると兄さんが説明した。普通なら反対するんだろうけど、うちはのんびりな親だからか、“まぁ、頑張ってみたら”と笑顔で言われてしまった。

ネタも覚えこみ、普段、箏の練習をしている1階の和室で兄さんと漫才の稽古をした。ツッコミのタイミングとか、言い方とか、表情、手振りまで結構細かく話し合った。私は、久しぶりに物凄く集中して特訓をしていた。自分に才能があるとも思えない、芸人という職業が大変ということもわかっている。でも私は、“人を笑顔に”その言葉をどうにか実現しなきゃいけないという思いを持っている。こうなったら、ダメでもともと、人を笑顔にできる芸人を目指してがんばってやる。

 

 

兄さんの営業手腕なのか、事務所の人にネタを見てもらうことになり、私はガチガチに緊張しながらその場所へと向かった。時、6月の月末にさしかかっている。

 事務所の1室、どうやら所属芸人が稽古に使ったりする部屋に通された。周りはちょっと汚れた白い壁、窓はない。長机の向こうに1人の中年ぐらいの女性が座っていた。

「琴ちゃん銀ちゃん、だったわよね? うちの事務所に入りたいのでネタを見てほしいとの希望で……」

 女性は兄さんの格好に一瞬引いたが、さすが業界人というべきか、すぐに平常心を取り戻した。

「はい、宜しくお願いします!」

 兄さんと声を揃えて、深々と頭をさげて挨拶をする。女性がどうぞ、というように手で合図をくれたので、深呼吸をして、ネタをはじめる。

 不思議とネタの最中、緊張はしていなかった。兄さんの声だけが聞こえる。周りが無音なのかどうかはわからない。元々音楽をやってきたからか、あまり頭で考えて漫才はしていなかった。稽古した感覚で話し、兄さんのボケにツッコミを入れる。緊張はしていなかったが、余裕はない、とにかく必死だった。

「もう、いいよ! どうも、ありがとうございました」

 あっという間にネタが終わり、お辞儀をする。すると、拍手が聴こえて来た。

「へぇ、今月結成したばかりって聴いてたし、妹さんの方は養成所に通ったこともないって聴いてたけど……結構筋がいいじゃない。お兄さんのキャラできわどいかと思ったけど正統派のしゃべくり漫才ね」

 女性が感心したような表情を見せてくれる。

「そりゃ、まだ完ぺきじゃないけど、間とか少し不自然なところもあるし、ちょっと妹さんが堅いかなってところも。でも、私はすごい将来性を感じたわ。うん、これは是非うちの事務所で活躍してもらいたいわね、じゃあこっちに来て。ああ、紹介遅れたね、私は園田、よろしく」

 

 

 何だかよくわからないまま、社長に会わせられたり、オフィスでいろいろ説明を聴いたりした。オフィスは電話が鳴ってて忙しそうだった。会社でいうと大企業って感じではないけど、活気のある企業って感じだ。

「じゃあ、最近大手さんからうちに来た即戦力の敏腕マネージャーを貴方達にはつけてあげる」

 園田さんがそう言うと、眼鏡をかけたいかにも頭の良さそうな20代後半ぐらいの男性がお辞儀をしてくれた。

「崎野と申します。宜しくお願いします」

「え、そんな敏腕さんつけて頂いていいんですか?」

 私がそう尋ねると、崎野さんはにっこりと笑った。

「著名な芸人さんにつくのも楽しいんですけど、僕は無名の芸人さんを一流にするのが夢なんです。むしろ将来有望な芸人さんにつけるなんてありがたいですよ。園田さんの見立てはたしかですからね」

 崎野さんはそう言って園田さんを見た。

「ワカスの才能を見込んで連れてきたのは園田さんですからね」

「だいぶ売れない時代が長くて、私も冷や冷やしたけど、今や1番忙しい若手芸人だろうしね。琴ちゃん銀ちゃんにはワカスに続いてもらおうかな」

 私がプレッシャーに肩をすくませると、園田さんは急に、大きく手を挙げた。

「あー、珍しい! あんたたち事務所に来てたの? ちょーどいい、会わせたい子たちがいるのー!」

「はいはい、園田さん、何でしょう?」

 聞き覚えのある声に私は結構勢いよく振りかえった。そこには普段見るスーツ姿ではなく、ラフな格好をした、頻繁にテレビで顔を見る、ワカスのお2人がいた。

――はわー! わ、わ、若山さんご本人!?

 今、芸人の中でも1番大好きな若山さんの登場にパニックを起こす。学生のような服装に黒に近い茶色のふわっとした癖っ毛、つぶらな瞳は仔犬のようで間近で見ると肌が妙に綺麗で、実年齢より若く見えた。

「この子たちは今日からうちに所属することになった新人芸人。あんたたちと同じく漫才師ね。せっかくだから、ネタ見せしちゃいなさいよ。若山、この子たち結構筋いいのよ」

「え、え……」

 園田さんのプレッシャーに私はどもる。兄さんはわりと平然としてるのに。

「へぇ、そうなんですか。じゃあ、是非」

 まずい、若山さんが興味津津に見てくる。わーん、超売れっ子芸人さんに見せるほどじゃないと思うんですが……。

「何やってんだよ琴子、やんぞ」

 なんで図太いんだこいつはー!

「わ、わかりました。宜しくお願いします!」

 私は、咳払いをして、ネタに入る。不思議と一旦入りこんでしまえば平静を取り戻せる。先ほど同様、周りの雑音も聞こえず、必死にネタを披露した。

 お辞儀をすると、また拍手の音がした。私はなかなか顔を上げられない。

「ね、なかなかでしょ。こっちの子なんて養成所も行ったこともないし、漫才はじめて1カ月もしてないんだって」

「へぇ! それでこんだけできるんですかぁ! 立派じゃないですかぁ!」

 若山さんが間延びした声で、だけど感心してくれている。私は恐る恐る顔をあげると、好奇心旺盛な子供のような表情の若山さんがいた。

「おい! ポンコツなおまえなんかよりよっぽど実力あるぞ! 粕谷!」

 若山さんが隣にいた――ああ、隣にいらっしゃったんですね――地味な服装に黒縁眼鏡姿の粕谷さんに声をかける。

「若山くん、私をポンコツ呼ばわりするのはおやめなさい。しかし、彼らが実力あるのはたしかですね」

 低い落ち着いた声で物凄く堅苦しい言葉遣いで粕谷さんが言った。服装のせいもあるが、テレビで見るより粕谷さんは落ち着いた大人という印象だった。おっさんくさい感じはないしおそらく粕谷さんも実年齢より若いと思うのだが、隣にいる若山さんが若いを通り越して幼いので年相応に見える。

「え、あの、いつもの言葉遣いってキャラじゃ……」

「言葉遣いは普段からこうでございますよ、あの服装に漫才の際は教師キャラを演じておりますが、話し方はいつもどおりなのです」

「粕谷は昔っからこう。教師志望だったからか知らないけど一人称も“わたくし”だし相手が後輩だろうが誰だろうが堅苦しい言葉遣い」

 キャラがどうこうで思い出したように、ワカスのお2人が兄さんを見る。

「こちら様も……キャラでしょうか?」

「いや、そうだといいんですけど……兄の女装はガチです」

 兄さんは私がそう言って肩を落としているのに、逆に胸を張っている。

「ええ! 俺は普段からこうですから! ちなみに女には興味ありません! 好みは可愛い系! 若山さん、あなたはなかなか俺的にヒッ……ぐぇっ!」

 兄さんの暴走スイッチを止めるために私は兄さんの腹部に拳をお見舞いする。兄さんは潰れるような呻き声を出してうずくまった。

「すみません! 兄は変態なんです! 気にしないで下さい!」

「……事務所にまたガチが増えたってことか」

 若山さんが苦笑しながら言う。

「あ、あの! 私、若山さんのファンです! 私、漫才はツッコミが重要だと思ってるのもありますし、若山さんのキレのあるツッコミ大好きです!」

 私がそう言うと、若山さんは嬉しそうに笑った。

「本当? もう女の子はみんな粕谷にばっかり目がいくから、そう言われるのは嬉しいよ。それに……」

 若山さんが声を潜めて、私に近づく。

「あの強烈な人が相方だしね、失礼だけど君もじゃない方芸人になりそうだからか、なんか親近感湧くなぁ。今日から事務所の先輩後輩だし、仲良くしようね」

 若山さんはそう言うと、私の頭を撫でてくれた。うわ、すごい好きな芸人さんに撫でてもらっちゃったよ私!

「むむ? 若山くん、だいぶキャラが違わないかい? 人見知りの上に性格がひんまがっている君が、そんな愛想の良い優しいお兄さんキャラだなんて違和感ありまくりですな。レディー相手だからってやましいことを考えているのではあるまいね?」

「うるさいぞ粕谷! うちの事務所にお笑い芸人で女の子の後輩が入ってくるなんて珍しいだろ! それもこんなわっかーい女の子、優しくするべきだろ!」

 私は、若山さんの言葉に首を傾げる。

「言うほど若いんですかね? ここのタレントさん、私より年下の方も結構いますよね?」

「え? ごめん、琴ちゃんだったよね? 年……いくつ?」

「今月24歳になりました」

 私がそう言うと、若山さんが制止した。

「え!? 二十歳超えてるの!? 俺、てっきり高校生……」

 私の表情を見ながら若山さんは口を手で抑えた。

「ちなみに、若山さんと同じ大学卒業して、会社員を経て、今ここにいます」

「あ、そ、そうなんだ、ごめん……怒った? っていうか、粕谷はなんでわりと冷静なんだよ!?」

「私も琴子くんはお若いとは思いましたよ? ですが、ネタの最中にこちらの銀慈くんと双子だとおっしゃっていたではないですか。ということは、2人は同い年。まぁ若くても20代だろうなと思いましたので」

「あ……」

「君は意外なほどに頭が悪いですな」

「うるせぇっ!」

 若山さんが粕谷さんの脛を蹴りあげ、粕谷さんは小さく悲鳴をあげ、ぴょんぴょんととび跳ねた。私はその様子に思わず噴き出してしまう。

「粕谷のせいで狙ってない笑いが起きたじゃねーか!」

「笑いが起こるのは芸人として本望ではないですか!」

「俺は狙ってないのに笑われるのは嫌なんだよ! 馬鹿みてぇじゃん!」

「あなたは馬鹿なんですよ! 言ったでしょう! 勉強なさいと! 前回のクイズ番組でのあの体たらくはなんですか! 恥を知りなさい!」

「うるせぇ! トーク番組で面白いこと1つも言えないポンコツ芸人がぁ!」

 若山さんと粕谷さんの言い合いは止まりそうにない。私は呆然とその様子を見、兄さんはあくびをしていた。

「ごめんねー、ワカスって馬鹿でしょー? でもねー、若山は芸人として才能はあるんだけど勉強できないし人間として欠陥が多いの、それを補うようにたしかに面白さは微妙だけど名門大学出て勉強もできるし生真面目で礼儀正しい粕谷がついてて。2人は揃ってちょうどいいから、今売れたんだと思うの」

 園田さんの言葉に納得する。うちは、どうなんだろう……才能は全部兄さんにいっちゃってて私は残りっカスみたいな奴だからなぁ……。

「こらー、若山、粕谷。いい加減子供みたいな言い合いはやめなさい。仕事までの時間は大丈夫なの?」

 園田さんがそう言うと、ハッとしたように2人が言い合いを止めた。さすがだ。

「言ってる傍から次トーク番組じゃん! 粕谷、足引っ張るなよ!」

「わかっておりますよ。あなたこそ教養のなさを出さないようにして下さいよ」

「へんっ! あ、そうだ、折角だから連絡先交換しとこう。うちの事務所の他の奴らとも一緒に飲みに行ったりもしたいし、ね」

 若山さんの提案でお2人と連絡先を交換し合った。園田さん、崎野さんとも連絡先を交換する。

「じゃあ、またね! 琴ちゃん! 銀ちゃん!」

「ではまたお会いしましょう、琴子くん、銀慈くんも頑張って下さい」

 若山さんがフレンドリーに手を振りながら、粕谷さんが礼儀正しくお辞儀をして、事務所を後にする。

「ふぇ〜、嵐のようなお2人でしたねー」

 私がそう言うと、園田さんがくすくすと笑う。

「粕谷はともかく、あんなにテンション高い若山は珍しいよ? あなたたちの漫才が気に入ったんじゃないかしらね。さて、じゃあ崎野、2人を売る策をたてなきゃね」

 園田さんがそう言うと、眼鏡を直しながら崎野さんが私たちをまた別の部屋に案内した。

 

 

事務所のライブとかネタ番組のオーディションとか、いろいろ話を聞いた。私はよくわからなくておろおろしていたけど、兄さんが“俺にまかせとけ”というので少し安心した。いや、普通ならこんな女装の超変態に安心するのはおかしいのだろうけど、兄さんの方が芸人として先輩だし、私は、今は必死についていこうと思ったのだ。

 

 

正式に私たちが「琴ちゃん銀ちゃん」としてデビューしてから、事務所のライブや他にも漫才を披露できるようなお店でネタを披露したり、地道にやっていた。テレビのオーディションはなかなか通らない、まぁまだデビューしたてだもの、当たり前。そう思っていた時だった。

 

 

「琴ちゃん、銀ちゃん。朗報! フジのネタ見せ番組、通ったよ!」

 崎野さんが嬉々とした様子で教えてくれた。それは、短い時間でどんどんテンポよくいろんな芸人さんがネタを披露する番組だった。結構視聴率もとっている有名番組だ。

「本当なら君たちぐらいの出たての芸人さんじゃ受けられないんだけど、ワカスの弟妹分っていう触れ込みで喰いついてね。それで受けさせてもらったんだけど、通ったね!」

 私と兄さんと崎野さんでハイタッチする。若山さんに報告すると深夜に事務所の他の芸人さんも呼んで、飲み屋で盛大ではないけど私たちの初テレビ出演のお祝いをしてくれた。

 

 

 その番組に出たのが最初の一歩だった。短い時間に詰め込んだ兄さん渾身のネタを一生懸命披露して、笑いはとれた。それから兄さんのインパクト大なキャラ、捕捉情報で一橋大卒というブランドもつけると、印象に残ったらしく、司会をしていた芸人さん、同じくその番組に出ていた芸人さんたちにも覚えてもらえた。

 お店で漫才する時も、見たことあると言って下さるお客さんもいたり。ワカスのバーターではあるけど、ちょこちょこいろんな番組に顔を出すようになった。

「よっしゃ! 突破したぞ!」

 そして今1番力を入れてるのが、M-1グランプリ予選だ。兄さんは漫才師として、まずはM-1チャンピオンを目指すと宣言した。私も、若手芸人なら通るべき道だと思う。

 

 

 順調にM-1グランプリの予選も通過している時だった。

 

 

「琴ちゃん、君に1つ挑戦してもらおうと思ってるオーディションがあるんだけど」

 楽屋で崎野さんが私に1枚の書類を出してきた。

「えっと、『リトルメモリー』声優オーディション……あ、あの小説、映画になるんだっけ」

 私は友達に勧められて読んだ小説を思い出す。内容は少女漫画チックなんだけど、すごく共感できる登場人物がいて心理描写とかなかなか読みごたえがあった。映画化される、実写ではなくアニメでやるみたいだ。

「って、これは?」

「琴ちゃん、声可愛らしいでしょ? だから声優に挑戦できるんじゃないかって」

「へっ!? いや、でも私、演技とかやったことないですよ!? たしかによく声は萌え声とか言われますけど……」

「芸人は結構、演技できるもんだし。僕は、琴ちゃんは演技上手いと見込んでるんだけどね。それに、活動の幅が広がるのは芸人にとってもプラス、違う層のファンを取り込めるチャンスだしね。これは注目作だし、本職の声優はもちろん、ドラマとかで活躍してる俳優や女優、他の芸人でもオーディション受ける人はいるみたいだよ。挑戦してみない?」

「演技……かぁ」

 私は、ラジオでとある役者さんが自分の演技で作品に命を吹き込んで、つくった人の思いを伝える、そしてそれで楽しませることができるのがすごく楽しいと言っていたのを思い出した。演技も人を笑顔にできる仕事なのかも。

「できるかわからないですけど、やってみます!」

 

 

 オーディション用の台本を受け取り、練習する。オーディションでは希望の役1つを受けるのではなく、メインの登場人物を全部やってみせるらしい。この作品は4組の男女が主役だ。まぁ男子は私はやらないだろうなぁ。女の子は、ふんわりした可愛い女の子、天真爛漫な能力の高い元気娘、気の強いツンデレ娘、クールな女の子……どれが合うんだろ? でも、全部やらされるんだし、一通り練習しないとな……。

 

 

 オーディション当日。集団ではなく、1人ずつ受けさせられる。事務所にネタ見せに行った時のような窓のない部屋、長机の向こうに中年ぐらいの男性が4人ほど座っていた。私は指示されたとおり、メインのキャラクターの演技をしていく。全ての台詞を言い終わると、真ん中右に座っていた泥棒みたいな髭面のおじさんが私に声をかけた。

「君は芸人さん、でしたね? 何か演技の経験は?」

「いえ……何もないです。学生時代も演技の部活とか全くやってませんでした」

「なるほどねぇ……」

 そのおじさんはあごをさすりながら、ちょっと考え込むようにしていた。ジョリジョリいいそうだな、なんて思ってしまった。

「わかった、ではお疲れ様でした」

「ありがとうございました」

 私は就職活動の面接みたいにお辞儀をして、丁寧にドアを閉めた。うーん、やっぱり演技未経験の私が来る場所じゃなかったんじゃ……ここに来るまでに見たことある女優さんとか声優さんともすれ違ったし。

 私は、溜息をつきながら、廊下を歩いていた。すると、これまた聞き覚えのある声が向こうからやってきた。爽やかな声に甘い声。どちらもメディアを通してしょっちゅう耳にする声だ。

「小野田くんが映画とはいえ、アニメのオーディションくるのって珍しくない?」

「そうですねぇ……最近やったアフレコは洋画でしたし、アニメはほとんどやらないですね。だから受かるかどうか」

「君みたいな超人気俳優でも受けにくるなんて、やっぱ注目作品なんだねぇ」

「そうですね。でも、今回は、事務所は何も言ってきてないんですよ。俺がやってみたいから受けにきただけで。声だけでの演技っていうのもすごく勉強になりますから」

「君といい、なんかテレビ超出てる俳優陣も来てたしさぁ、僕受かるかなぁ」

「何言ってるんですか、上條先輩、先輩は厳密に言えば舞台俳優ですけど今や第一線で活躍してる声優でしょう? こないだの雑誌にも書いてあったじゃないですか“実力派超人気声優”って。俺なんかよりよっぽど合格に近い存在じゃないですか」

「何か中高の後輩とはいえ、テレビに出まくってる君に言われると恥ずかしいんだけど」

 うわぁ、やっぱり。私がラジオと学生時代母親と見に行った舞台ですっかりハマった、舞台俳優兼声優の上條貴史さんだ。男性にしては小柄、うん、たしか若山さんよりも背が低いはず。体型も女の子のように細身で顔立ちも優しげで女性的。舞台の特集や声優雑誌でも全くイケメン扱いはされてないけど、私から見ればやっぱり物凄く可愛いし声爽やかで素敵すぎる。声かけたいのはやまやまだけど芸人さんとは違うし……。

隣に歩いているのは、テレビで散々見てきた正統派美形俳優の小野田雄輔さんか。

私はお2人とすれ違いざまに会釈だけした。

「あれ……あの子……」

 立ち止まる音と小野田さんの声が聞こえてくる。

「うん? 知ってる子?」

「たぶん、ですけど。お笑い芸人の……」

「へぇ、芸人さんまで受けにきてるんだ。でもたしかに最近、アフレコ上手い芸人さん多いしね。ライバルいっぱいだなぁ」

「って、女の子ですから上條先輩の直接のライバルにはならないですよー。そうだそうだ、琴ちゃんだ、名字は忘れちゃったけど」

 小野田さんに名前を不意に呼ばれ、私は思わず一瞬足が止まる。え、ただでさえ出たてで知名度もない上に地味な容姿で印象の薄さには自信がある私を、小野田さん……認識してる? あの超人気俳優の小野田さんが? 別にファンとかじゃないけど光栄だ。

「テレビでしか見たことないですけど、漫才面白いんですよー、相方がすごいインパクトあるお兄ちゃんで。ちらっとしか今顔見れなかったけど……色白で髪綺麗でお人形さんみたい、結構可愛い子でしたね」

 かわっ……!? お人形さんみたいとか可愛いとか異性から言われたことなんてほとんどないのに! 私は顔から火が出そうというのを初めて体感した気がした。恥ずかしくなって、私は思わず走り出した。

 恥ずかしい、何あの人!? 面と向かってではなかったけど、何だか恥ずかしかった! やだやだやだ! 売れっ子の俳優ってみんなああなの!?

 

 

 

 

 ああ、そうだ。思えばあれが初めての出会い……でしたね。遭遇というべきなんだろうけど。正直に言えば、あの時は“正統派美形俳優として超人気の人”という認識はしてて、出演してたドラマで見たことあるものもあるけど、別にファンってほどでもなくて……。うん、だから遭遇しても若山さんや上條さんほどテンションは上がらないっていうか……。って、何ですか雄輔さん、いじけないで下さいよ! しょうがないじゃないですか! あの時は正直、別世界にいた人でしたし、一緒に仕事したりするなんて思わなかったうえに、あ、貴方を好きになって、ましてやお付き合いして結婚するだなんて欠片も思ってなかったんですから! まだ貴方のことテレビで見る通り、ノリが良くてお茶目な人程度に思ってたぐらいですしね。こんな変態だとは思わなかったですよ。それにこんなに……。ああ、もういいじゃないですか! だから、雄輔さん! いつまで8の字書いてるんですか! もう……。今は、好きですよ、大好きです。どれぐらいとか言い表せないぐらい大好きなんですよ。私は本当に貴方なしじゃ生きていけません。誰よりも貴方を想ってるんですから。それじゃダメですか? あ、機嫌直ったんですね、良かったです。

 

 

 では、また次回、普段の生活でのエピソードもお話して、続きの話もさせて頂きますね。御拝聴ありがとうございました、小野田琴子でした。